春風2014

春風 2014 2014年3月30日(日)

雨の代々木公園で春風というお花見パーティが開催されました。わたしはバングラデシュで携帯を失ったため、新しい携帯を購入し、その手続きに思いのほか時間がかかりゆっくり目の参加。久しぶりに会う友人知人に、「匠くん、すごく裏の裏でバーやってたよ(四万十塾の焼酎バーのこと)。」と噂になってしまうくらい人目につかないようなところで、塾長とーるくんとゲストかスタッフかボーダレスなあいかわらずの方々がお酒を売っておりました。夜が更ければ更けるほどに酔っぱらいどもがいつまでもお酒を求めにやってきていて、春の訪れを感じました。東京は桜が満開、いい季節になりました。明日は福島へ出発のため、終電で酔いつぶれた匠くんをかついで帰ります。(よ)

すみません・・・。(匠)


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カジのお墓参り

お墓参り 2014年3月29日(土)

学生時代在学中に亡くなった友達カジのお墓参り。カジの実家がある静岡県掛川市に10家族 20人くらいが集まった。亡くなってから数年は毎年みんなで行っていたが、ここ数年間はご無沙汰だった。今回は友達のカヨチンがみんなに声をかけてくれた、ありがとう。みんな結婚したり子供がいたりと、短い時間ではあったが賑やかな時間を過ごした。同級生なので集まった瞬間、昔のノリがスタート、何にも変わんない。お墓参りなのだが、実に楽しい時間だった。カジ、ありがとう。(匠)


最後の朝のチャー

ありがとうバングラデシュ 2014年3月26日(水)

昨夜はテレビの前でクリケット観戦をして夜を過ごしました。ワサマお勧めのネハリという牛肉を6時間煮込んでつくるムガル料理を夕食に、夜中のフットボール観戦にきた友人シャバブとテレビを見ながら荷物をまとめました。
バングラデシュは イスラム教徒が88%、残りの12%がヒンドゥー教、キリスト教、仏教、他宗教徒といわれます。異なる宗教同士が仲良く共存しているのが国の誇りだといいます。現に船大工のハリムとボジョンはイスラム教とヒンドゥー教、いつも一緒に仕事をしています。
宗教上食べないもの、飲まないものがあります。ヒンドゥー教徒は牛を食べませんし、イスラム教徒は豚を食べません。どちらもお酒は飲みません。今回の旅でお酒を飲みたいと思った瞬間は2回だけでした。ショドルガットから出港して船旅をはじめた瞬間、そしてバングラデシュ最後の夜。どちらも叶いませんでしたが、飲まないという習慣もいいものだなあと思いました。これを機会に週に一度はお酒を飲まない日を設けようかと考えています。
Wasama撮影
初めて見る国、初めて知る世界、とても刺激的でした。観光客がほとんどいないのも理解できます。バングラデシュはそこに住む人々が中心となって暮らしている国です。人々の生活がそこにあります。他国から来ている人も、バングラデシュの生活に飲み込まれます。どんなに西洋化が進んでも、そこはNYでもロンドンでも東京でもなく、バングラデシュのダッカです。奇麗なものと汚いものが混在し、人々のエネルギーに溢れ、凄まじい勢いで動いています。観光するよりも、一緒にこの動きを作る側になりたくなる、そんな気持ちにさせてくれる国です。
思いのほか肉食文化だったこと、お隣インドやネパールとはずいぶん違う国だったということ 、どんな田舎に行ってもみんな携帯電話を持っているということ、この国のエネルギーの強さをまだ世界は知らないんじゃないかということが旅をして分りました。自分の目で見て感じて経験してみないと分らないことがたくさんたくさんありました。(よ)

Wasama撮影
ありがとうバングラデシュ。本当に心からお礼を申し上げる。4週間前にたどり着いた時、空港から見える建物が壊れていたり崩れていたりするものが多く見えて、「おおぉ来たぞ〜」と気持ちが高ぶっていたのがずいぶん前のようだ。4週間、色々な人と出会い、色々なモノを見て、色々感じた。旅の間、15年以上前に「片道切符」という言葉がかっこいいと思って、往復チケットよりも高額な片道チケットをわざわざ購入し、1人ペルーに行った時の事を何度か思い出した。バングラデシュという国で、南米も含め後に行ったアメリカやヨーロッパなどのキリスト教が占める割合が多い国々には全くないものを感じる事ができた。というより、僕がイスラム圏の国についてほとんど知らなかったという事を感じさせられた。
Wasama撮影
今回、非常に強く感じたのが「日本人、バングラデシュに行くべき」。旅人が激減しているという話しをいろいろな場所で耳にする。日本はこの先も減っていくだろう。インターネットが張り巡らされた今、行く前から知ることができるし、こどもの頃からそんな生活をしていたら1人で旅に出る勇気なんか養えるような気がしない。実際に若者に限らず、ちょっとしたお出かけですら携帯で電車の時間を調べ、ほんの少しの心配もしないように努力する人が増えている。何か疑問に思えばすぐにグーグルに聞いて調べる。疑問や心配をどんどん排除しようとするのが今の世界の傾向であるのは間違いないだろう。だからちょっとした心配に耐えられなくなっちゃうと、どうしようもなくなっちゃう。そんなのヘッチャラさとドシンとした比重の重い心を構えたいが、そうしにくくなっているのが今日の社会だろう。これはこうでなくてはいけない、これはこうすれば解決する、これはこう考えれば良い、こうなったらこうするべきだ、こう言われたらこう返せばいい・・・などなど、全てに答えを出そうとしている。みんな同じ方向を向いて言われた通りに動かないと心配になっちゃう誰かが決めている固定概念。それをある程度簡単に壊してくれる国がバングラデシュかもしれない。先人達のおかげで日本人に対してはとても友好的である。日本人のみならず、誰に対してもとても優しい心を持っている国であると強く感じる事ができ。(もちろん全員が全員なはずはない)人間の力ってこんなにすごいんだ、自分たちが思っていたのはとても小さな枠の中での出来事だったんだ、などなど、日本人ならば必ず得るものがあるだろうバングラデシュ。かなり好きになってしまった。
最後になるが、バングラデシュで僕たちの旅を思いっきりサポートしてくれたWasama Doja、そしてFriendshipの仲間達に心の底から感謝の気持ちを捧げたい。本当にどうもありがとう。
(一番上のチャーの写真以外はWasama撮影。僕たちがなかなか撮る事ができなかった2人の写真を撮ってくれたもの) (匠)


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オールドダッカ

オールドダッカ 2014年3月25日(火)

丸一日過ごせるのは今日が最後、匠くんと湖まで散歩しました。湖からはスラムとの間を行き来するボートがひしめき合っています。通勤時間なのか、たくさんのボートに沢山の人が乗り込んでいました。じっと見ていると1人の男性が匠くんに声をかけてきました。「チャー屋さんでこの前会ったよ、」匠くんは覚えていないそうですがとりあえず挨拶を返すと、「あちら側にある自分の家を見たいか?」と聞いてきます。「イェス」といって、スラム行きのボートに乗せてもらいます。匠くんが「漕いでいい?」と頼んでみたら、オールを渡してくれました。嬉しそうに漕ぎ出す匠くん。他のボートからみんなが見ています。なんとか対岸まで漕ぎつき、お金を払おうと「いくら?」と尋ねると持っていた中から100TK(通常3TK)を取られました。仕方ないね、漕がせてもらったし。ほんとは自分で漕いだからお金はいいよ、とでも言ってくれるんじゃないかと思ったのですが、そうはいきませんでした。スラム街には沢山の家、沢山の商店がぎゅっとつらなり、ロティさんのお家に行く道は人1人がぎりぎり通れるくらい狭い道を何回も曲がりくねって進んでいきます。「ここだよ。」と案内してくれた先はトタンで作られた一部屋にベッドとテレビがある窓のない小さな空間。奥さんと息子さん、3人の娘さんの6人家族で暮らしているそうです。向かいの一部屋に息子さんが住んでいて、すごく貧しいから息子は学校へ行けない、と言っています。日本で私の仕事はないか、と聞かれました。「貧しい、お金がない、日本で働きたい」この言葉を何度この国で聞いたことか。チャーをごちそうになり、次に来る時には是非また家に来てくれ、と言われて再びボート乗り場に連れて行ってもらって別れました。
オールドダッカ
11時、ワサマとフレンドシップのオフィスに向かいます。お母さんにご挨拶し、その後タクシーでオールドダッカ観光に連れて行ってもらいました。交通渋滞で時間がかかり、更にオールドダッカも常に混雑していて時間がかかります。ワサマが案内をしてくれて、目的を告げ値段交渉をしてリクシャー2台で向かったところ、わたしたちの乗ったリクシャーマンがわたしたちを違う所へ連れて行き、ワサマとはぐれてしまいました。その後携帯電話で連絡を取り合い、あらたにリクシャーに乗って、かなり時間がかかりましたが再会できました。はじめのリクシャーマンには騙され、その後乗せてもらったリクシャーマンには約束の3倍以上のお金を取られ、最後のダッカを大いに感じることができました。外国人を知らない場所へ連れて行って置き去りするなんてなんてひどいなあ、としばらく考え込んでいましたが、これがこの国の現実なんだなあ、と理解します。どんなにがんばって働いても我が暮らし楽にならず、というのが何年も続いているのでしょう。騙してでもお金を稼ぎたい、と思うようになってしまったのでしょう。仕方のないことなのかもしれません。
物を盗む、人を騙す、お金を高く請求する、旅行者ならばこれらのことに注意するのは当たり前のこと、それなりに心構えを持っていたのですが、彼らの方が一枚も二枚も上手でした。
そんな目に合っても憎めない国、バングラデシュ。貧富の差は日本とは比較にならないほど激しく、人々のエネルギーも強いです。どこへ行っても親切にしてくれる人がいます。人間に興味があるのです。(よ)

僕は盗んだり、人を騙したり、お金を高く請求したりする事自体が当たり前だと思っているので、相手が上手だとは全く思わない。盗られたらそれまで、騙されたらそれまで、お金は高くても手渡した時点でそれがその瞬間のバランスがとれた相場。ムカついたりする事無く、ただただ今日を生きるだけ。(匠)


ダッカ夕焼けの風景

Bogra 2014年3月23日(日)〜24日(月)

今回の旅は早朝移動が多いです。朝6:00Hospital出発。ボートでガイバンダの港まで約2時間半すっとばし、港に迎えにきてくれたバイクに3人乗りしてバスターミナルまで送ってもらいました。そこからバスに乗って約2時間のところにあるBograという町に向かいます。ワサマがホテルを予約してくれていたのですが、ガイドブックによるとそのホテルは郊外にある高級ホテル。高級ホテルなのはありがたいのですが、郊外にあるというのを知って、ホテルを町中にチェンジしたいと申し出、自分たちでホテルを探しました。一日しか滞在しないので、郊外のホテルで一日を過ごすより、町歩きを楽しみたいと思ったからです。町のドセンターにあるホテルにチェックインし、なんとか無事に今夜の宿を確保しました。一息ついて町中を散策。これまで以上にすごい人人人。リクシャーとタクシーと人間とで町はごった返しています。マーケットらしき商店街はまるで迷路のよう。迷路の中にひたすら同じような店が続き、振り向けばどこから来たのかもう分らなくなっています。匠くんはここで買い物を楽しんでいました。「盗みがありそうな町だな、」と匠くんが言った通り、その迷路の中でわたしの鞄の中から携帯電話が抜き取られてしまいました。「タナ、コタエ。(警察どこですか?)」と聞くと、なんと宿の隣でしたので、盗難届を出しに警察に行きます。バングラデシュでいろいろ経験、警察にも行けるなんて、と盗難によるショックを経験値でカバーしようと試みます。事情を聞かれ、警官同士が「外国人だから狙われたんだろう、取ったのは多分子どもだな、」とベンガル語で話しているのがわかりました。所長さんぽい人が「彼らにチャーでも。」と誰かに言ってから数分後、軽食とチャーが出てきました。なんだかカフェにでも来た気分。証明書がほしい、と言っても「そういうものはない」と言われ、保険に申請するから盗難届を出した証明書がほしい、と何度も告げ、「明日」と言われて返されました。
翌朝9時、なんだかんだあって、結局ただの白紙に自分で書いたものに警察のスタンプが押されて「はいこれで」という盗難届を受け取り、ダッカ行きのバスに乗りました。
ダッカ夕焼けの風景
バングラデシュは貧富の差がとても激しい国です。町には物乞いがたくさんいて、子どもからお年寄りまで、手足の無い人や体の不自由な人までもが寄ってきます。車に乗っていても、どこを歩いていてもついてくるので、もういいかげんいやになるのですが、一度や二度断っても諦めることなくついてきます。気持ちからお金をあげたこともあるのですが、なんだかそれが彼らにとってよかったとも思えませんでした。タクシーに乗っていても窓から手が伸びてきますし、買い物をしていても隣でべったり離れません。バングラデシュ人が一緒にいると、きつく断ってあっちへ行け、と言って追い払ってくれるのですが、わたしたちは「ソーリー、ノー。」としか言えない弱い外国人。物乞いのいない日本との環境の差は大きいです。強く断れるような免疫は4週間じゃ難しかったです。
イスラムの国の慣習なのでしょうが、田舎に行けば行くほど男性と女性の対応の違いを感じます。チャー屋さんには男性しかいませんし、話しかけられるのも匠くんばかり。歩いている女性は顔を隠しているし、フレンドシップホスピタルのルールにも「女性は〜することを避けてください。」とあったように、女性が自由に行動するのは容易ではなさそうです。ダッカのような都会では女性も男性と同じように働いて自由に行動していますが、一度他の地へ行くととても不自由さを感じました。ガジプールで会った女性が、「30年前は女性は外に出ることも難しかった。」と言っていたのを思い出しました。外国人の女性というだけで通り過ぎる人全員が必ず見ますし、通りの反対側からもわたしたちのことを話しているのが分ります。観光客の少ない国、外国人はとても珍しい存在のようです。一緒に写真を撮ってくれ、と何人の人に言われたことか。(よ)


フレンドシップホスピタル

Lifebuoy Friendship Hospital@Dewanganj 2014年3月22日(土)

昨夜フランスからドクター4人が到着、一緒に朝食をとります。外国人の食事と宿泊は隣に停泊している別の船でとります。この病院船は陸に接岸しているため、患者は歩いて乗船することができます。陸から見えるので、みんながじっと見ています。違う食べ物を違う環境で食べている事に違和感を覚えるのは日本人だからなのでしょうか。今回つくづく日本人は他人に気を使う民族なのだと感じることが多いです。
午前中は病院船を案内してもらいます。1Fが診察室、薬局、手術室、眼科、歯科、目の手術室
2Fにはラウンジががあり、みんながくつろいだり、テレビを見たりしています。地下が乗組員、バングラデシュ人ドクター、看護師さんの宿泊と食事場のようです。 (よ)

午後、船長のファズルーさんの案内でカンパラ村を散歩。この村に限らず、バングラデシュ北部の川沿いの村全てにおける大きな問題は、毎年必ず起こる洪水によって土地が浸食されてしまう事だ。村を歩くと最初に目につくのが、道の幅の半分にずらーっと立ち並んでいる家々。彼らは元々浸食される前の土地に住んでいたのだが、洪水によって土地が削られて住む場所を失ってしまった人たちだ。ほとんどの家はトタンと藁と竹でできている。この道は周りの土地よりも高くなっているから安全なのかと思いきや、洪水時にはこの道も水に浸かるという。ってことはこの家々も浸かるという事だ。じゃあどうやって・・・って聞くと、洪水になるとある人達は船の上で生活し、ある人達はもっと奥へ移動、人それぞれだよ、と船長。
フレンドシップホスピタル
30分くらい歩くと、シュガーミルと呼ばれる砂糖工場。中を見てみたい?と聞かれ、断る理由も無く見学をさせてもらう事になった。何人もの工場職員が一緒に付いてまわってくれた。ここカンパラ村はサトウキビの生産が盛んな村で、どこを見回してもサトウキビ畑が必ずある。今がちょうど収穫時期らしく、沢山の収穫されたサトウキビがトラックで工場に運び込まれていた。約30分ほど工場見学をさせてもらった後、来た道を戻り船まで戻った。
Hospital Shipの中にあるレクリエーションルームでクリケットの試合をテレビで見る。がんばって覚えようとしているクリケットのルール、だんだん何がどういう風に面白いのかが分ってきて楽しくなってきている最中。ボールを投げて、バットで打つ、だけど野球とはずいぶん違うルールだ。ちなみに試合時間が非常に長く、昼の2時に始まったゲームが夜の10時に終わるということもある。早く決めるために大会によっては半分ほどのゲームで決着を決めることもある。
夕飯はやはり外国人料理で、となりでよし子がガッカリ、さすがに僕もガッカリ。他のバングラデシュ人スタッフはHospital Shipでベンガル料理、僕たちとフランス人ドクターは別の宿泊専用船の中で外国人料理。しかもその姿は陸にいる患者さん他、村の人から丸見えで、子ども達はずーっと見ている。どんな思いで僕たちの食事を見ているのかが気になって良い感じがしない。となりでフランス人が、シャワーのお湯が出ない( 基本的にここは水シャワーの国、今は夏。)、出ないならお湯を沸かして持ってきてほしいとか、テーブルには外国人用に置いてあるペットボトルの水があるのだが、これは冷えていないから冷たいのがほしいとか言っている。僕ら2人で「何言ってんだこいつら」って顔、何を考えながら生きているのか不思議に思う。今回のドクターとは気が合わず、食べ終わったら席を立ったのだが、そのまま寝るのもなぁ・・・と再びクリケットの試合を観にとなりの船へ行き、そこで夜の時間を過ごした。(匠)


Friendship トレーニングセンター

Gaibandha Friendship training centre 2014年3月20日(木)〜21日(金)

「朝6:30に迎えが来るから。」昨夜ワサマにそう告げられ、3泊4日の予定で北に行く事、GaibandhaにあるFriendship Trainingcentreに一泊させてもらうということになりました。
早朝迎えの車に乗ってガイバンダに向かいます。ルクセンブルクから来ているAbbes&Catherine夫妻(下写真右下)と同乗、彼らは昨年5ヶ月間バングラデシュに滞在し、このセンターで英語を教えていたそうです。Friendshipエデュケーションマネージャーのレジャーさんとアニマさんが同行し、今回の授業を担当します。午後3時、到着してみんなで昼食をいただいて自己紹介します。誰も私たちがなぜここに来たのか、目的も滞在期間も知らず、もちろん私たちもここに一泊滞在させてもらうこと以外何も知らされていないので、さてどうしよう、という感じです。(施設なので自分たちでの外出は不可能に近い環境なので町歩きなどはできません。)
特にやることもないので、Abbes&Catherineの授業を見学させていただき、レジャーさんやアニマさんにここの施設のことを伺いました。
このセンターでは毎月様々なクラスがあるとのこと。今回は3日間の予定で、子どもたちに英語を教えている先生たち自身にきちんとした英語を教え、また教え方も教えるというプログラム。昨年から学んでいる先生たちなので、すでにAbbesたちとは顔見知りの様子。今回は英語の正確な発音と単語を教えていました。生徒たちはとても積極的で、みな手を挙げて答えています。生徒数は45人程。15人弱が女性、子連れで来ている女性もいて、授業の間は誰かが面倒をみてくれているようです。
Friendship トレーニングセンター
このセンターはレンガで作られたまるで迷路のようなユニークな建築物で、涼しさのためなのか建物は半地下に造られ屋根には芝生が植えられています。教室、図書館、食堂、宿泊棟、お祈りの部屋、池があります。地上には畑とテニスコート、大きな池と洗濯場がありました。通ってきた町並みとは大きく異なる、かなり整えられたセンターです。
レジャーさんに聞くところによると、学んでいる先生たちは島々の田舎町で教えている小学校の先生方で、教育にお金をかけられないような貧しい環境のため、Friendshipが授業料を払って先生教育を施しているそうです。学びたい意欲があり、最低限の能力があれば誰でも学ぶ事が可能で、英語だけでなく数学や他の授業もあるそうです。Friendshipのこのプログラムは2006年からはじまり、はじめはホテルや場所を探して行っていたそうですが、1年半前にこの建物が完成したとのこと。こういった教育プログラムは他の地域でもNGOなどの機関が施行しているそうです。このような取り組みによりバングラデシュの教育水準は成長していっているのでしょう。
先生たちはみな私たちに興味津々、英語を使いたいのか熱心に話かけてきます。うちとうけてくるとこれは日本語ではなんというの?ベンガル語ではこう言うよ、とみんなに囲まれます。日本の歌を歌ってくれといわれ、簡単な歌を歌うとみんな大喜び。夜はケラムというゲーム(上写真左下)を教えてもらい一緒に楽しみました。
21日、昨夜ケラムを教えてくれた青年がバングラデシュ国歌を歌ってくれました。日本の国歌を歌ってくれと言われていきなり朝から「君が代」斉唱。その後唯一知っているベンガルソング「シャデラウ」の歌を歌うとみんな大盛り上がりでした。一緒に朝食をとって9時からスタートの授業を見学させていただきます。今日の授業も名詞の発音授業。小一時間で授業が終わり、see you againという声が聞こえてきます。この先生たちの授業はこの日で終了し、午後からまた別の先生たちがやってくるとのこと。
Friendship トレーニングセンター
気になる私たちの動向は、というと、「午前中に迎えが来る」とワサマに電話で聞いた以外情報がなく、荷物を準備して待っていました。昼を過ぎても誰も迎えに来る様子もなく、部屋で休んでいると、13:00に誰かが港まで送っていく、その後そこから舟に乗ってFriendship Hospitalへ行け、ということになりました。自分で決めて行動する旅ではなく、次に何をするのかぎりぎりまで知らされないという、なんだかゲームみたいな不思議な旅になっています。
舟付き場に到着、木造船に乗せられしばらく待つ事20分。その間、船頭さんにカタコトのベンガル語で話しかけます。「近いですか?」と聞くと、「遠い。」「何分?」「2時間。」奥で横になって寝てていいといわれました。必要に迫られ、ガイドブックにちょっとだけ掲載されている用語集で少しずつベンガル語のコミュニケーションを覚え始めます。
17時過ぎ、Hospitalに到着。出迎えてくれたファロックさんが部屋を案内してくれました。やはりここでも目的と滞在期間を聞かれます。当たり前です。ここまで用もなく来る人は絶対にいないでしょうから。「実は何も分らないんです、2泊だとは聞いているのですが。」「何がしたいか、明日の予定はどうするのか?」と尋ねられたので、Hospitalの活動を見学したいのと、村を見学したいと告げました。ここにはいくつかルールがあり、村にガイドなしで自分たちだけで行かないようにとか、お酒は公に飲まない事、女性はタバコを公衆の面前で吸わない事、女性は水着で泳がない事、などなどなど。やはり自由に外出することは不可能のようです。さてさて、ここで2泊3日を過ごすのですが、いったいどんな2日間になるのでしょうか。(よ)


クシュティア

ラロンの導く旅 クシュティア編 2014年3月17日(月)〜18日(火)

3月の満月にはクシュティアでラロン祭が開催されます。はからめ暦では17日が満月ですが、バングラデシュでは時差で16日が満月。今日が満月だと思ってクシュティア行きを計画していたのですが、お祭りはまだ続いているのでしょうか。福澤さん曰く、一週間くらいやっているとのことでしたので、予定通り行く事にしました。ワサマが心配して瀬戸芸に来ていたクシュティア在住のドータラ作者ショリフルに電話をして、わたしたちを泊めてくれるように頼んでくれました。
さて、いきなり珍道中。クシュティア行きのバスに乗り遅れました。言葉も文字も分らないといろいろ勘違いが生まれます。直行便は夜までないというので仕方なく乗り継ぎ便で向かう事に。不安な中バスに乗車。案の定乗り継ぎ場所も乗り継ぎ便もどこかわからないという問題発生。不安を抱え休憩所で下りて待つ事2時間以上、バス停の人が教えてくれてなんとか3:00のバスに乗車することができました。バスは満席で、運転席の横と入り口の台の上に座ります。
クシュティア
なんとか明るいうちにクシュティアに到着しました。迎えにきてくれるはずのショリフルは電話をしてもまったく言葉が通じず、リクシャーでラロン祭へ向かいます。到着した先は人の海。ラロンとは関係のないお店(安物アクセサリーや手品、洋服屋、カレンダーまでも)などの屋台が並んでいて日本のお祭りとちょっと似ています。フォリダさんのバンドのメンバーが、偽バウルーがいるから気をつけろ、と言っていたのもよくわかります。いろいろな格好をしたバウルーっぽい人たちがシッディというハーブをくゆらせています。彼らは布を敷いてここで数日暮らしている感じです。この人ごみで言葉の通じないショリフルと会うのは不可能に近いね、とりあえずチャーでも飲んで一息つくか、寝袋もあるし、ここでバウルーと夜を過ごすのもよさそうだね、とお茶していると、英語の堪能なバングラデシュ人の3人組が軽快に話しかけてきました。彼らはダッカから朝着いて、夜行で帰るのだそうです。取材で来たそうですが、もう一通り見て回り、暇してる感じでした。そうだ!ショリフルに電話して通訳してもらおう、とお願いすると快く引き受けてくれました。ショリフルは今家にいて、これから向かうと言っているとのこと。彼らは私たちが彼に会えるまで一緒にいてくれるといいます。すぐには来ないだろうから一通り案内するよ、と言ってくれラロン廟を案内してくれました。バングラデシュ人はとても親切です。困っていると助けてくれる、と本に書いてありましたがまさにその通り。さて、2時間以上経ったでしょうか、連絡のないフョリフル、3人が私たちのことを心配し始めます。再び電話をしてようやく連絡がついて会う事ができました。「ラロンシャー見る?それとも家に行ってご飯食べる?」と聞いてきます。「ラロンミュージック!」というと、ミュージックは夜中からだから家に行こうということになりました。家は近いのかと聞くと近い、と言っていたと思ったのですが、三輪自動車で30分以上郊外へと走り、店も明かりもなくなった田舎道をひたすら走り、ここから先は車が走れないからここで下りろと言われた所からさらに歩くこと20分。「これじゃ自力でラロン祭戻れないね。」 到着した私たちを家に案内してくれました。ベッドが1つの一部屋のお家。奥さんが用意してくれたご飯をベッドの上に布を敷いていただき、「チャー?チャー?」と聞いてくるので他にすることもないので「イエス。」とチャーを飲みに歩きます。暗がりにぽつんと一軒チャー屋さんがありました。それから小さな小屋に連れて行ってくれ、そこで「ビックブラザー、ヤングブラザー、シスターズサン」と紹介してくれました。ドータラとタブラで歌を歌ってくれ、静かな夜に歌声が響きます。すると、「夜に騒ぐな!」との苦情を言われ、一同すぐさま解散。ラロン祭はショリフルの家で過ごす事になりました。家に戻ると、さっきのベッドを指差して「OK? 」と聞いてきます。そこで寝て、とのことのよう。いつもはショリフルと彼の奥さん、2歳になる娘さんが眠っているベッドをわたしたちのために空けてくれたのです。彼らは隣の部屋に行きました。隣はいったい誰の家なんだろう、ここに客人が来た事あるのかな、ショリフルなりに精一杯のことしてくれているんだと思うと胸があつくなり、たくさんの蚊にも悩まされ眠れませんでした。ラロン祭に来たけれど、なんだかウルルン滞在記みたいになってきました。
早朝みんなの活動する音で目が覚めます。4、5軒の家が共同のキッチン(外につくられた煮炊き所)と井戸、トイレをシェアしています。みんな物珍しそうに私たちを見ています。ショリフルにチャーに誘われ、昨夜の茶屋に行きました。なんとここはお兄さんのお店でした。その後20分くらい歩いて食べ物が売っている場所に行き、目玉焼きとパラタの朝食をいただき、再び集落に戻ります。昨日会ったハセムがカタコトの英語で一生懸命にコミュニケーションをとってくれます。ココナツやまだ青いパパイヤなど、木になっている食べ物を次々と採ってきてくれては食べろ食べろとおもてなし。草むらの中の雑草の豆など、いろいろな野生の食べ物を口にしました。ここまでローカルに入り込めるとは夢にも思ってもいませんでした。
言葉が通じない人間同士がお互いに一生懸命にコミュニケーションをとろうとする、なんとかもてなそうとその場にあるものを説明して運んでくる、こんな経験なかなかできません。近所の人が次々に見に来ます。やはりここでも囲まれてしまいました。
たまり場としているっぽい部屋へ行き、ショリフルと仲間たちがラロンソングらしき歌を歌ってくれました。もう帰らないとバスに乗れないからと伝えるまでずっとコミュニケーションタイムが続きます。それにしても、みんなとても優しいです。この優しさに触れることができて、この国に来たかいがあったと思うほどです。優しさとは本来誰の心にもあるものなのに、この純粋な気持ちを日本での生活では忘れてしまっていたのかもしれません。帰るまぎわにショリフルが自分でつくったというラロン像をくれました。宗教や階級の違いを飛び越えて、大切なのは人間なんだ、誰もが同じ人間であるというラロンの精神を教えてもらった気がしました。大切にするね、ありがとう、 「アバールデカホベ」「アバールアシュベン」と手を振って別れました。クシュティアの旅の最後にラロン像をいただいたとき、わたしたちはラロンの精神を教えてもらうためにこの町にやってきたのだ、やはりラロンが導いてくれた旅だったんだ、と思わざるを得ないような濃い旅でした。 (よ)


フォリダパルビーン音楽隊とよし子

ラロンの導く旅 ガジプール編 2014年3月16日(日)

バングラデシュで是非聞きたいと思っていたのはラロンの歌。ラロンとはバウルーと呼ばれる吟遊詩人(歌う修行僧)で、日本でラロンソングを歌っていたフォリダパルヴィーンさん率いるミュージシャンの方々にその素晴らしさを教えてもらいました。フォリダさんは福澤さんの説明によればバングラデシュの国民的歌手で、日本の美空ひばりにあたるくらい有名な人だとのこと。高松でお会いした時にその歌声に感動し、ステージ最後の日に少しお話をさせてもらったときにいただいた一枚の名刺だけが頼りでした。日本からメールした際にコンサートがあれば是非行きたいと伝えたところ、日程を教えてくれ、ダッカから電話をかけたら16日にガジプールであるコンサートは自分たち以外のラロンソングを歌う人たちもいるからそれがいいと教えてくれました。ガジプールという町はダッカから車で約2時間ほど北上したところで、車をチャーターする以外に行く方法がなく、ワサマが電話でフォリダさんに連絡をして私たちを連れて行ってくれるように頼んでくれました。
フォリダパルビーン音楽隊との旅
夕方フォリダさんのお宅に伺うと、フォリダさんはとても暖かく迎えてくれ、息子のノマニさんともお会いしました。(写真右上フォリダパルビーンさんと息子のノマニさん)その後、バンドのメンバーがやってきてバンに乗り込みいざ出発。ガジプールの町から更に車で走る事30分〜40分、町を抜け月明かりで見えるのはバナナの木と田園風景。道に迷いながらジャングルのような木々を抜け、こんなところでコンサートがあるのだろうか、と思うくらいの秘密の場所のようなところに出ました。なんだかお祭りっぽい感じで野外ステージが組まれ、屋台が並び、どこから来たのか人も沢山集まっています。人ごみをかきわけフォリダさんご一行(わたしたちも含めて)は奥にある部屋に通されました。そこにはグル(修行僧の先生級)らしき人が座り、その奥には花が飾られたその人の写真が飾ってありました。その人を中心に輪になって座っていると、次々にいろいろな人がやってきてフォリダさんに挨拶をします。足下にひざまずき敬意を表す独特の挨拶。そんな中に、まさかここに外国人が来るとは、とのことなのでしょうか、テレビカメラを持った取材陣が来て私たちにインタビューをしてきました。ラロンを知っているか、なぜここに来たのかなど、つたない英語で伝わったかどうか。フォリダさんの愛弟子であるシュバス・ロザリオさんは英語を話せる人で、この場所を案内をしてくれました。さっきのグルの名はカレクシャイン(写真左上私たちの間にいる方)、ここはカレクシャインの村で、この場所は彼の音楽学校(名前はバンミュージックスクール)だそう。ラロンの哲学や歌を教えていて、今日は聖なる集まりで、ラロンの歌を歌う人たちが招かれてステージで披露するのだといいます。そう、今夜は満月、3月の満月といえばラロン祭!コンサートと思いきや、まさかのラロン祭に連れてきてもらったという訳です。ラロン廟のあるクシュティアに次いで、ここガジプールは2番目に大きなラロン祭を開催するところだそうで、地元の言葉で「ロハガシヤ」シャドルバジャール(聖なる集い)というのだと教えてくれました。ステージではえんえんと挨拶が続き、いったいいつ歌うんだ?と思っていたら、なんだかステージでわたしたちのことが説明されているような感じです。ベンガル語の合間に「ジャパニ」とか「タクミ」とか「イヨシコ」というアクセントが聞こえてきます。案の上ステージに呼ばれてしまいました。今度は聴衆の前で挨拶をするはめに。美空ひばりが連れてきた外国人がラロン祭にやってきた、という感じなのでしょうか。その後奥の部屋に呼ばれてフォリダさんたちと共に夕食を御馳走になり、しばらくしてからようやくステージが始まりました。夜中の12時を過ぎていたと思います。フォリダさんたちのラストソングくらいになった頃、人が呼びにきてステージの上で聞け、というではありませんか。丁重にお断りしても早く早く、とまたもやステージに呼ばれ、フォリダさんたちが演奏している中に座らせていただきました。(写真大)フォリダさん方をはじめ、暖かく迎えてくださったカレクシャイン師、ラロンやバウルーのことを教えてくれたクリスチャンでありラロンを崇拝するシュバス、みなさんのおもてなしに心から感謝します。朝まで続く祭だそうですが、フォリダさんのステージが終わると早々に車でダッカまで戻り、夜中3時くらいだったでしょうか、家まで送っていただいただきました。なんだか夢のような、ラロンのスピリットのお導きがあったからではないか、と思うくらいミラクルな旅でした。(よ)


ダッカ夕焼けの風景

ボナニとスラム 2014年3月15日(土)

リクシャーに乗ってボナニというファッッションストリートに行きました。バングラデシュの女性たちはみなカラフルな服をまとっています。サロワカミューズという、スパッツの上にワンピースにスカーフという服装か、サリーが主流。1つとして同じものを着ている人はいず、ジーンズにシャツやブラウスなどの単純な服がつまらなく思えてきます。基本オーダーメイドで作るものらしいのですが、既製品を売る店もいつくかあるので地元服にチャレンジしてみようとお買い物。匠くんは洋服よりも対岸に舟で渡ってスラムに行きたいとのことなので、待ち合わせ時間を決めて別行動することにしました。
ダッカ
お互い目的を果たして家に戻ります。今夜はワサマのお父さんと夕食の予定。ベビータクシーでダッカ大学付近へ向かいます。ちょっと早めに出たので、地元の人がよく行く洋服屋へ連れて行ってもらいました。メンズの服が多く、匠くんがショッピングを楽しんでいました。そこからリクシャーでワサマが子供の頃育ったお家に向かいます。まるで美術館のように古典的なものが飾られている立派なお家。お父さんは音楽が好きなようで、応接間にはサウンドシステムがありました。おばあちゃんにもお会いしました。真っ白なサリーを着たとても品のいい美しい方でした。お義母さん、義弟さん、カナダからちょうど帰国していた従兄弟と、ワサマファミリーに迎えてもらい楽しい時間を過ごしました。インターナショナルファミリーなので当然なのでしょうが、おばあちゃんもお義母さんもみな英語を話します。日本で親戚一同みな英語を話すというお家はどれくらいあるでしょう。その後、おいしいと評判のケバブ屋さんに連れて行ってもらい、いろいろなケバブを楽しませていただきました。高松で会ったときには知り得なかったことですが、ワサマのファミリーはお父さん方もお母さん方も教養溢れる国際化家族、この国の経済を動かしているといっても過言ではないでしょう。
お父さんと禅の話になり、スーフィズムの話になりました。スーフィズムについて、とても禅と近い、イドリスシャーという教典のようなものから学ぶとよいでしょう、と教えてくれました。ちなみにワサマのお父さんの運転で食事に行ったのですが、一度もクラクションを鳴らさず、ダッカトラッフィックの喧噪とは対極にある安全運転を初めてこの国で体験しました。(よ)


チャー屋さん

バングラデシュという国 2014年3月14日(金)

今日金曜日はイスラム教の休日にあたり、市場やお店など、お休みのところがとても多い。国民の90%近くがイスラム教であるこの国。文化や習慣など日本と大きく違うところが沢山ある。日本人の僕が感じた「違い」を少し紹介してみよう。

お祈り
まず、この国のどこにいても1日5回、どこからともなくイスラム教のお祈り(サラート)が街全体に聞こえるように流れる。ちなみに最初の1回目は夜明け前でかなり早く最後の1回は夜9時くらい。(日の出や日没によって時間が決まるらしく季節によって時間が変わる)日本の田舎でも朝6時とかに町内全体にサイレンが鳴ったりする風習が残っているところがあるが、この時代にみんな一緒の時間で生活しましょう的な意味の分からないサイレンよりは良い。
ダッカトラフィック・お祈り
交通事情
先にも書いたような気がするが、一言で言うと・・・・・やっぱ一言では言えないや。片っ端から説明していくと、ほとんどの道には線が無い、もしあっても関係ない。道路を走る車種は、日本であれば、主に車、バス、バイク、トラックだが、ここではそれに加えて、CNGと呼ばれるベビータクシー、リキシャ(人力車の自転車版、語源は日本のジンリキシャ)、リキシャの後ろが荷台になっているやつ、車のタイヤ2輪を並列に並べ支点にしシーソーみたいに荷台を組み前と後ろ1人ずつで長い荷物(パイプ、竹、鉄筋など)を運ぶやつ、プラス横断歩道が無いので人間、が混在している。1台につき約10秒に1回の割合でクラクションを鳴らす。割り込み運転当たり前、隙間という隙間に我よ我よとどんどん入っていく。追い越し当たり前、クラクションを鳴らしながらどんどん追い越す。クラクションは警告ではなく、自分がここにいますよと知らせてあげているような鳴らし方。追い越せるのに追い越さないという事は無い。ちょこっとタッチしても気にしない、もし譲ったらただ自分が先に進めなくなるだけだから「ユズル」という言葉は道路上には無い。バスの上、車の荷台、電車の上、とにかくどこにでも人人人、乗ってはいけない場所は無い。そして、それなのに全て上手くいっている。これがバングラデシュの交通だ。
お祈りのサラートの音(歌?声?)、車のクラクションの音、リキシャのチリンチリンの音、物売りの声、これが混ざり合っているのが、この首都ダッカのエネルギーに満ちあふれた音である。
旅で出会った友達
チャー
お茶。バングラデシュ中どこの村に行っても必ずと言って良いほどあるのが チャー屋さん。ここは人のたまり場、情報交換の場、一息つく所、そんなニュアンスだろうか。アルコールがある国のバーにあたる場所でもあるが、もっと気軽に誰でも座れるのがチャー屋さん。「チャーください」と言って何も言わないと小さなコップにミルクティーが出てくる。砂糖を1さじ、煮詰まった紅茶が注がれ、コンデンスミルクまたは別で煮立ててある甘い牛乳を足して、スプーンでカラカラカラカラとかき回す、これで完成、はいどうぞ。場所によって色々あるが、どこもとにかく甘い。といってもお風呂屋さんのコーヒー牛乳よりもちょっと甘い程度かも。もっとかな・・・。甘いんだけれど、ふんわり香る紅茶の感じと一息つくタイミングとで毎回「いいねぇ、やっぱり」と言いたくなる。価格は5〜10タカ。地元の人は5タカっぽいけれど、僕たちの場合はほとんどが10(13円くらい)タカだ。バングラデシュ人と一緒にチャー屋さんに行った場合、ほとんど御馳走になっている。
食事
基本全てトルカリと呼ばれるカレーである。ダッカ、特に今僕たちが住んでいるグルシャン地区には多国籍なレストランがあり、お金さえ出せば何でも食べられる環境にあるのだが、それは特別な例として、基本カレー。カレーといっても種類はとても豊富。まだ美味しい物しか食べていないのか、それともこの国のカレーは全て美味しいのか、というくらい美味しい。日本語でいうチキンカレー、マトンカレー、豆カレーなど(イスラム教は豚を食べない)。そしてライス、ナン、他チャバティのようないろんな種類の粉もの。そして手を使って食べる。これは日本とは大きな違いである。口に運ぶのは必ず右手。最初にライスやカレー、野菜などをスプーンで自分のお皿に取り分けてから右手で食べ始める。途中何か付け足したりする時は右手は食事が付いているので左手でスプーンを使う。ミネラルウォーターの未開封の印であるビニールは両手でも取るのが困難なため、左手だけでそれを取るのは無理に近い。ので食べ始める前に開けておくのが良いと最近学んだ。左手は全く使ってはいけないという事ではなく、例えばナンをちぎる時は両手でちぎるし、固形の物を取り分ける時は左手でどうぞと相手のお皿に乗せる事もある。国によって多少の違いはあるのだろうが、バングラデシュではこんな感じ。
手で食べる・屋台で買う
階級社会
階級社会が存在する。カーストのように法で決められた物ではないのだが確実に存在する。例えば、僕たちが出会うどう見てもお金持ちの家には、お手伝いさんというか使用人というのか、身の回りの雑用係がいる。 掃除、洗濯はもちろん、食事もお手伝いさんに任せているのがほとんど。お金をもらってその家の手伝いをする、そこまでは分るのだが、例えば、先日食事を御馳走になった家では、大きなテーブルで自分の手の届かないところにあるお皿を取るのに手の届くところにいる人に「ちょっとそれ取って」と言わず、わざわざ奥にいるお手伝いさんを呼んで「そのを私のところに運んで」「はい、分りましたマダム」みたいな感じ。掃除は掃除をする人、食事は食事を作る人がする事であり、私たちがする事ではない。かといってお手伝いさんを見下している感じが無く、とにかくそれが当たり前なのである。実はこれが僕にとっては何よりもなじめない文化のひとつである。リキシャを運転する人ががんばってお金を貯めて、この階級社会を這い上がっていく可能性はゼロではないにしろ、限りなくゼロに近い。体を動かす労働者、技術職、物を作る人、手を使いながら何かを作る人、そういう人はどちらかというと下に見られている感じ。他人の仕事を奪ってはいけないとでも言うのかというくらい、他人の仕事に全く関与しない。これで良いんだよとでも言っているようで、みんなでその場を良くしていこう的な考えがあまり感じられない。
1本の大きな木がバングラデシュの大地に根付いていて、その根は深く広く張り巡らされている。1本、2本、100本、200本、千本、1万本切ったくらいではビクともしない。木を切っても根は枯れずに新たなる光を求めてどんどん芽が出て大地を緑に染めていく。まるでバングラデシュの国旗の緑のように。それも含めた今までの歴史、流された血、そして先に見える希望、とにかく何か大きなエネルギーが存在していて、それが真ん中にある赤い丸なのかも。
日本にいると、どんな所にも行ってみたい、どんな人たちとも同等に話せるようになりたい、とか思ったりするのだが、この国でそういった考えは間違っているに等しいのではないかとも思う。間違っていないにしても馬鹿げているのは確かだ。
水について
水がどこから来てどこへ流れていくのか、地球規模のイメージを持っている人は本当に少ない。この国のほとんどの上水は地下水であり、ここ数年で沢山の井戸が開発されたこの国では今まで手の届いていなかった地盤からも水を吸い取っている。そのためヒ素など有毒な物質も含まれ始めているという問題も出てきている。そして、限りがある地下水資源であるため今後枯渇する可能性が高いとされていたり問題山積みなこの国の水事情。下水はほぼ垂れ流し、ゴミは埋め立てるのか処理施設があるみたいだが、町ではポイ捨てが基本。 捨ててあるゴミの中から紙だけを集めたり、ビニールだけを集めたりしている子供たち(大人も)がいる。少しのお金になるのだろうか。
水・スラム
スラムと呼ばれる場所
ダッカには何カ所もスラム街と呼ばれる地域がある。多摩川の土手みたいなスラム、一見ゴミ捨て場と思われるようなスラム、町内会が形成されているんじゃないかと思うようなスラム、スラムといっても色々ある。ただ、そこでは人間ってやつが生きているのを感じる事ができる。スラムでなくても道ばたで小さな赤ちゃんを抱え寝ている子供がいる。道ばたで寝ている10歳くらいの兄弟っぽい男の子2人がいる。道ばたで寝ているお婆さんがいる、死んでないよな・・・。夜10時、マーケットの駐車場で物売りの子供たちが駆け回って遊んでいる。夜10時、ルンギを身にまとった男たちが建設作業現場で、ライトを照らし何時まで働くんだろうというくらいノンストップで作業をしている。みんな働き者だ。彼らが住むのはスラムなのか、路上なのか、わからない。あらゆる階級の上から下、右から左まで、360度×360度が一緒になってバングラデシュを作っているような感じがする。
携帯電話
ほとんどの人は手ぶらで町を歩いている。みんな仕事をしているのかな?しているとしたらどんな仕事をしているんだろう?1日1、2時間くらい働いてあとはオフとかなのかな?と思わせる人々がただ歩いている。手ぶらに見えてもみんな携帯しているのが携帯電話。日本と違ってSIMロックフリーなので、端末や通信会社に縛られる事なく安価で手に入れる事も可能。電話料金は日本とは比べ物にならないほど安い。だからみんな本当に用事があって連絡してるのかな?と疑ってしまうほど電話をしている。これは田舎に行ってもそうなので、なんだか江戸時代に携帯電話が普及してしまったイメージだ。とにかく安い携帯なのでみんなが持たない訳がなく、何をするのでも電話1つあればできちゃうような社会が成り立っているように感じる。ちなみに「携帯マナー」みたいなものは存在しないので、誰でもどこでも、大きな声でどうぞって感じ。
旅で出会った友達
優しい国
この国のどこに行っても優しさにふれあう事ができる。基本的にみんな優しい。困っている人がいれば放っておけない。教え込まれたマナーとかそういうのではない、心からこの人を気持ち良くさせてあげたいという気持ちがあふれている優しさだ。それは僕がまだ見るのも珍しい外国人だからというのもあるだろうけれど。見返りを期待しない一方的な「おもてなし」の気持ちを感じる事ができるのは僕だけなのだろうか・・・。


排水処理セミナー

福澤さん 2014年3月13日(木)

朝6時30分ダッカ港着。アパートに戻り旅の片付けをして、午後はワシントンホテルで開催されているセミナーに出向きました。日本で知り合った福澤郁文さん(上写真下段左から2番目)に会うためです。福澤さんは1972年、独立戦争直後からバングラデシュに関わり続け、シャプラニールというNGOを立ち上げたり、バングラデシュの国民的歌手フォリダパルヴィーンさんを日本に招いてツアーを開催したりと、バングラデシュとのご縁が深い方です。匠の出身校で教えていたり、共通の知人がいたりと、出あうべくして出会ったのかもしれないと感じさせてくれる大きな流れの中で生きている人です。ホテルでの話はバングラデシュの排水処理についてで、NPO法人APEXのPUSTEKLIMというシステムについて話し合われていました。実際にインドネシアで成功している例があり、インドネシアから専門家の田中さん(上写真下段左から3番目)が来て説明をしていました。午後から参加したわたしたちはコアメンバーのディスカッションにお邪魔してしまい、お話を伺うばかりでしたが、ダッカの排水について処理不可能なのでは、と思っていたその答えがここで話し合われていたことにとても共感しました。その後福澤さんのスケジュールぎりぎりまで情報交換をさせていただき、「それじゃまた日本で。」とお見送りしたあと、特に予定もなかったので夕食に美樹子さんを誘いました。
ダッカにて
リキシャーでグルシャン2まで向かいます。目印のホテルで美樹子さんとおちあい、すぐ隣のお店に入る予定が、「あ、そこ前にワサマに連れてきてもらいました。」「えっ。じゃあ行った事ないところにしよう。あっちに行ってみたかったお店があるの。今日は何してたの?」福澤さんの話をしながらお店の前まで歩きます。
ベンガル料理が食べたい、という私に、pizza、pasta、と書いてあるお店を選んだ美樹子さん。「大丈夫ビリヤニって書いてあるからカレーもあるよ。」雰囲気からするに高級店であろうレストランに入りました。席に案内されると、何と福澤さんとスタッフの方々が隣のテーブルで会食をしているではないですか。「あれ!?」とお互いびっくり。美樹子さんに福澤さんを紹介します。先に食事が済んで次の予定に移動しかけた福澤さんたちに、食事がまだ済んでいないにもかかわらずいきなり美樹子さんが「一緒に行っていいですか?」と言ったので福澤さんもわたしたちも一瞬固まりましたが、さすが福澤さん。スタッフに聞き、車の手配、先方の了解も得て、ダッカ大学付近のアーティストのお宅へ同行させていただきました。
壁には大統領と一緒に撮った写真が飾られ、通訳のバングラデシュ人がアーティストの旦那さんの写真をみてびっくりしています。有名なテレビのコメンテーターだそうで、ちょうど収録前のひとときにお会いする事ができました。さて、大切な用事とは、今回のプロジェクトを福澤さんと共にオーガナイズしていた吾妻さんが画家であるNajima Akahter さんの絵を購入するという件でした。Najimaさんの絵をたくさん拝見させていただき、今後日本で展覧会を開催する話が進んでいきます。明日はインドで展覧会、お忙しい中夜遅くまで、わたしたちの突然の訪問、恐縮でした。
さて今回の各種手配、通訳をしていたのはJABA TOURという日本語堪能なバングラデシュの旅行代理店の方々。社長のアラムさんはじめ、ラナさん、みなさん日本語ができるだけでなく、気遣いすべてが日本人を知り尽くしているとしかいいようのない心のこもったきめ細やかなサービス、驚きました。
今日はなんだかいろいろあった一日でした。これは偶然なのか、それとも引き寄せなのか、自分たちだけの旅ではないような気がしてきます。(よ)


ダッカ夕焼けの風景

ハティヤ島を後に 2014年3月12日(水)

今日はお昼にハティヤ島から船に乗りダッカへと向かう。ダッカ最大の港ショドルガット到着は朝5〜6時の予定だ。朝のショドルガットを見られると思うとワクワクする。
午前中。まだフレンドシップ号に乗っている僕は、昨日からこの船に乗り込んでいるフランス人のお医者さんの診療を見学させてもらう事にした。ちょっと海外のお医者が来て活躍している姿を写真に撮りたいと思っていたのだが、僕が見学させてもらったのは診療ではなく手術だった。「これを着てマスクとヘアキャップをつけて、この靴に履き替えて・・・」と簡易的な手術室内の服装にチェンジ。自分自身手術を受けた事も無ければ、他人の手術を見た事など今までに無いので、いきなりのこのシチュエーションにびっくりした。手術室の中はノリの良い音楽が流れており、先生たちも歌いながら、そして僕に説明してくれながら処置をしていた。次に何をやればいいのか、次は何が必要なのかを僕以外のみんなが把握していてトントン拍子にオペが行われていく。患者さんは5歳位の男の子、お腹の辺りに6cmほどメスを入れ先生が歌いながら手際よくちゃんちゃんと切ったり縫ったり。島の人たちにとってはとても心強いエキスパートチームがやってきた、とそんな思いだろう。
ダッカ
船のみんなに別れを告げてハティヤ港までベビータクシーで40分ほど。途中に広がる景色は日本の田舎を思い出させるような静かな農業地。山や丘が全く見えないというのが日本と大きく違うところだろうか。
お昼前に到着しているダッカ行きの船に乗り込む。出港まで時間があるので一度船を降りてあたりを散歩。ただただ歩いていると、みんなニコニコしながら写真を撮ってくれ撮ってくれと自分を指差して寄ってくる。移した写真を「こんなのが撮れたよ」と見せてあげると、またニヤッとしながら「グーッ、サンキューサンキュー」と。写真を撮ったうちの1人にお店をやっている人がいて、写真を見せたらバナナを1本くれた。僕がバングラデシュで感じている事の1つがこのバナナ、す〜っごく美味しい。日本のバナナ(ほとんどフィリピン産か)も美味しいと思っていたが、僕が食べた種類のバナナ(10種類以上のバナナがあるという)は日本のよりも2倍は美味しい。そしてびっくりしたのは種があるバナナがある。最初普通に食べたら、ガリッと固い散弾銃の弾みたいなのが出てきた。バナナに何か入っているはずが無いと思っている僕は、野原を駆け巡るバナナを猟師が散弾銃で撃って捕獲し、それを食べるのだから弾が入っていて当たり前と思っているバングラデシュ人を思い浮かべてしまった。(『Back to the Future part3』を思い出す人もいるだろう・・・・・僕だけか。)
で、1本くれたバナナをその場で食べ、その後、船の中で食べようと数本のバナナを買った。できればこのバナナをみんなにお土産に持って帰り、僕が言っている事が決して大げさではないのだと誰かに解ってもらいたいのだが・・・。
船が出港し、いくつかの小さな港に寄りながらダッカまで。途中の港で使われている浮き桟橋には大きく「日本による負債取消プログラムの元で作られました。」というような事が英語で書いてあった。1971年にバングラデシュがパキスタンから独立し、その後沢山の辛い時期を乗り越える際に日本が果たした役割が大きかったという事をいろいろなところから耳にする。バングラデシュ人が優しいのは日本人にだけではないが、どこかに先人たちが行ってきた事が今回の僕たち旅にも影響を与えているのであろう。本当にどこに行っても人々の優しさを肌で感じられる素敵な国だ。(匠)


フレンドシップ号で受診するために並ぶ人々

Rainbow Warrior 2014年3月11日(火)

早朝、ワサマの撮影に同行してフレンドシップ号から島まで渡り、診察を受ける人々の列を見ました。すでにたくさんの人が並んでいますが、我こそ先にと横入りや病状を訴え優先的に乗船させてくれと懇願する人人人で混雑しています。とてもたくさんの人が治療を必要としています。フレンドシップ号はドクターの数や予定にも寄りますが、昨日聞いたドクターの話では昨日は64人、多い時は200人を診る事もあるそうです。ドクターは複数いるので1日でかなりの数の患者さんを診察することができるそうです。ワサマ曰く、「フレンドシップ号がこの島に来るようになってからまだそんなに経っていないから、人々は「自分を診てくれ」とばかりに並ぼうとせずに訴えてくる。でも1日に沢山の患者さんを診れるんだ、並んでくれれば自分の番がくれば乗船できる。まずはそれを分ってもらうところからもはじめないと。」と話していました。目の病気、鼻の病気、言葉の分らないわたしにまで訴えてきます。ワサマがLeprosy(ライ病・ハンセン病)と言っている重病そうな少年もいます。震災から3年経ち、亡くなった方々の追悼セレモニーの現場から、今助けを必要としている人々の現場にいる自分の存在意味を考えてしまいます。「なぜ今わたしはここに?」今日到着したフランスからきたドクターと同じ船に乗ってフレンドシップ号まで戻ります。
ダッカ
フランスのドキュメンタリーチームとさっき到着したドクターたちと食堂で話をします。今日が震災からちょうど3年目にあたるということ、私たちが福島在住と告げると一同びっくり。急にシーンとなり、放射能の影響は?人々はどうしてる?政府を信じてる?なぜ福島に住んでいるの?逃げたくないの?など、かなり真剣なまなざしで質問してきます。「福島の被害は福島だけではない、日本全体の問題だし、日本だけでなく世界にまで影響している。汚染水は未だ流れ続けているし、3年経って自分の家に帰れるのか帰れないのかもまだ分らず仮設住宅で暮らしている人々がいる。福島を忘れないためにもわたしたちは福島に住み続けて自分たちの生活をインターネットで公開している。」と言うと、福島にいる意味を理解してくれました。
日本時間14時46分(バングラデシュは11時46分)デッキに上がって海から日本の方向に黙祷。フレンドシップ号(元Greenpeace Rainbow warrior号)はかつて捕鯨反対活動をして日本の船にもアタックしていた船です。今では病院としてバングラデシュにて活用されています。捕鯨の拠点でもある石巻でボランティア活動をしていた私たちがこの船に乗船して、人々を助ける舟として活躍している様子をレポートするとは何とも不思議な縁です。(よ)


病院船から帰る人々

Friendship Hospital 2014年3月10日(月)

朝、ハティヤ島に到着。同じ船に乗っていたであろうバングラデシュ人の撮影チームと一緒にハティヤの別の小さな港町まで日本の観光地にあるトロッコ電車みたいな車で移動。たどり着くと陸から1kmほど離れた場所にFriendship Hospitalと書かれた大きな緑色の船が浮かんでいる。この船は、ワサマのお母さんRunaさんがディレクターを務めるFriendshipが所有する3隻の船の内の一つである。元々は持ち主であった環境保護団体GREENPEACEが「Rainbow Warrior」という名前で使用していたが、Friendshipに寄贈され現在の動く病院船「Friendship Hospital」として活躍している船である。そして今日から2泊3日、僕たちの宿にもなる。
Friendship Hospital
実際にこの「Friendship Hospital」(上写真左上)がどのように活動しているのかを簡単に紹介しよう。この船はバングラデシュ南部にある島々をぐるぐる回りながら島に住む人たちの病気や怪我を診つづけている。船内には内科、外科、火傷、眼科、歯科、婦人科、そして薬局など各分野のお医者さんが在中し、手術室も設置されている。島の村々に医者がいない訳ではないのだが、そんなに高い技術、衛生環境がある訳ではなく、手に負えないという現状がある。
通常は港に接岸し人々は歩いて船病院に診療に来られるのだが、ここの港は潮による大地の浸食がひどく岸沿いが浅く船が近づけないため、小型船(上写真左下、左上の写真にも見える)で陸と船病院を行き来しなければいけない。
診療の手順は、陸で整理券のようなものを受け取った人から小型船に乗り、Friendship Hospitalまで移動し乗り込む。乗り込んだらどのような診療が必要なのか(どの先生に診てもらうのか)を受付(上写真右上)した後、各部屋に分かれている診療室(上写真右下は両腕に大きな火傷を負った子供とその母親、青い服は先生。)で診てもらう。そして薬が必要であれば薬局で薬を受け取るといった流れだ。
お医者さんは、バングラデシュ人もいるが、世界中からのボランティアだったり、国境なき医師団ではないのだが、それと似た組織があるらしく空いている時間を使って自ら手を挙げて船に乗り込んでくれる方が沢山いるという。気になる医療費はゼロ。いろいろな支援によって成り立っているFriendship、医療に関しては全て無料である。薬も最初は無料にしていたのだが、ただで手に入れたの薬よりも少しでもお金を払って手に入れた方がより効くと思われるらしく、一部の薬は心理的な作用を考えほんの少しのお金(結構いい金額がする薬を2~5タカ(4~7円))を頂いているという。
地球上に住む人間1人、どのような環境で育ったどのような人間であっても、全く完全に100%同じ価値があるならば、もしあるのであれば、この「Friendship Hospital」の活動は「急務」である。明日で東日本大震災から3年が経つ。ここは被災地ではないが、被災地よりも支援が必要とされている事は確かだ。Runaさんが行っている、バングラデシュ人のバングラデシュ人によるバングラデシュ人のための活動、僕たちのこのサイトでこのように紹介する事は小さな事だが、少しでも多くの人に知ってもらいたいと心から思う。
造船現場1
船内でランチを食べた後、ところ変わって船から岸へ渡り造船現場を見学。この村では現在2隻の船を造船中。1つは上の4枚の写真で完成までまだかかる船。もう1隻は下の写真4枚でほとんど完成している船、あと10日くらいで完成との事。ここで船の事を書き始めると、どうやってまとめるかを考えるのが大変だけど、琵琶湖の辺りからウズウズしているような感じが伝わってくるので、いつか機会を作り船好きの人たちに向けてバングラデシュの造船&船文化のレポートを発表できればと思っている。ちなみに板までの製材はエンジン式のバンドソウで行うが、それ以外は機械無し、全て手作業で作り上げる。
造船現場2
と、毎日起こった事、考えた事などを書いていると結構長くなっちゃって、そろそろやめとこうかなって思うんだけれど。バングラデシュの日常、そしてバングラデシュ人の生活についても近いうちに紹介させて頂こうと思う。(匠)


ダッカ夕焼けの風景

ショドルガット(ダッカ港) 2014年3月9日(日)

午前中ワサマは日本大使に会いに大使館へ出向き、今後日本でバングラデシュの船の展示会ができるかどうかを打ち合わせに行きました。話はいい感じで進んだようです。午後にはワサマがコーディネートしてくれるHatiya島への船旅が始まります。オールドダッカにある港ショドルガットから出港して一晩かけて南にあるハティアという島へ向かい、そこでワサマのお母さんがディレクターをつとめるFriendshipの活動を見させてもらう予定です。
ダッカ港は世界一とはいかないまでも、日に70万人は利用している世界でも有数の大きな港だと聞きました。たくさんの人とたくさんの船…。その光景には圧倒されて言葉を失います。この景色が見られただけもワサマに感謝です。
17時45 分発、一晩かけて島まで向かいます。船内はには雑魚寝場所があり、たくさんの人が自分の陣地に布を広げて寝ています。バングラデシュ人がナビゲートしてくれないとこの船に乗船するのは不可能に近いくらいの雑踏です。ワサマは個室を予約してくれていて、それぞれベッドがありました。チャーは頼むと運んでくれ、それ以外に籠を頭にのせた男性がスナックやピーナッツ、ゆで卵などを売りにきます。食べたあとのゴミはすべて川に捨てるのが当たり前のよう。フルーツの皮だけでなく、ビニール袋や空のペットボトルまでもポイと投げ捨てる姿があちこちで見られました。
バングラデシュは川幅も広く、川上交通が日常に使われています。ハティヤ島へ行くのには車や電車や飛行機より、船が一番便利なのだとか。桟橋を使わず小さな木造船からアクセスするのも当たり前の光景のようで、小舟に積んだ荷物を船に運び入れる様子をたくさん目にしました。日本では見られないこの船の数にただただ見入るばかりです。(よ)

ダッカ
船には僕たちが慣れ親しんでいる英語や数字が全く書いていないので、こりゃあ僕たちだけじゃどうにもならないねと、なんだか魔法をかけられて1枚の絵画の中に入ってしまったみたいな感覚。普段、僕たちだけだったら迷わずに2等、3等の雑魚寝を選ぶであろうが、今回ワサマが手配してくれたのは1等であろう個室。料金は2200タカ(2900円位)。
夜、部屋から出て椅子に座りながらお茶を飲んでいると、イスラム教の格好をした男の子がすごく僕たちに興味を持っているみたいで、ニコニコしながらずっ〜とベンガル語で話しかけてくる。全く何を言っているか分らないのだが、しばらくするといきなりその子が歌いだした。僕たちに捧げる歌みたいな感じで3、4分くらい歌っていたであろうか。歌なのかお経のようなものなのか、歌だったら終わったら拍手するけれどお経だったら拍手はおかしいよなぁなんて思いながら、全く何を歌っているのか分らないけど僕は聞いていた。歌い終わるとそばにいた少し英語がわかる別の男の子が、彼は3年かけてこの歌を覚えた・・・ような事を伝えてくれた。「すごいでしょ」と言っているような、とても自慢げで誇らしい顔をしていた。しばらくして、あれは何だったんだろうなぁ・・・と、答えが分るはずも無いのに、ただただこの現状を心に落とし込もうとしている自分がいる事に気がついた。
ハティヤに到着するのは明日の朝8時頃の予定。途中、夜中の12時、2時などに他の小さな島に寄り、やはりそこでも人や荷物が大移動していた。みんな夜遅くまでがんばっている。(匠)


ダッカ夕焼けの風景

ジャーマンブッチャー。 2014年3月8日(土)

まだ眠っているワサマに置き手紙をして二人でグルシャン地域を散策しに行きました。バングラデシュに来て一週間以上が経ちましたが、気づけば自分たちだけで町歩きなどをしていなく、とても新鮮でした。グルシャン2にあるジャーマンブッチャーというお店を目指します。ここで日本から来た美樹子さんが働いているので会いに行きました。ジャーマンブッチャーは地元では有名なおいしいお肉屋さんだそうで、お肉以外にもチーズや海外食材などを扱っています。もともとはハンガリー人とタイ人の奥さんが経営していたのを日本人が買い取って継続しているそうです。そんなわけで、美樹子さんはみんなからマダムと呼ばれてバリバリ仕事をしていました。海外で活躍する日本人女性、という感じでしょうか、ここで3ヶ月間働いてから今後継続するかどうかを決めるそうで、あと一ヶ月の間にどんなドラマが待っているのか乞うご期待です。(よ)

ダッカ
(写真左上)ジャーマンブッチャーのお店の前で美樹子さんと。
(写真右上)今住んでいるところから歩いて5分の所にあるグルシャンDCCマーケット、よく通る道なので、買い物はしなくてもだんだん顔なじみに。
(写真左下)ダッカには大きな川のような湖がいくつもある。上の大きな写真を撮った橋の下は対岸のスラムとを結ぶ渡し船の発着所。
(写真右下) ワサマが言うにはダッカで一番美味しいバーガーを作る店。夕食はほとんど外食の毎日。「今夜はおいしいバーガーを食べにいこう!」と友達のシャバブと一緒にリキシャに乗って着いた先はこんな感じの屋台、名前は「AWESOME BURGER」。実はこの屋台、表通りにあったはずがなぜかかなり裏通りのそのまた裏みたいなところに追いやられているとのこと。なぜかと聞いたら、いつも出店している場所は表通りの有名なホテルのすぐ近くで、そのホテルにはいま、ダッカで行われているクリケットのアジア大会の関係で国外から有名なクリケットの選手が宿泊しているという。なんと、おいしいバーガー屋さんの話が噂になり、クリケット選手がホテルで食事をとらずにこのバーガー屋さんに来てしまうという、ホテルにとってはとても迷惑な存在となってしまっていたのである。それでホテルからの要請で立ち退かされてしまったという。その後、バーガー屋さんの経営者のどなたかが、自由に使える場所という事で、誰も来ないんじゃないかと思うほど暗く蚊が沢山飛んでいる裏路地にお店を開いているという訳だ。そ、そんな・・・って思ったけれど、クリケットの大会が終わったらまたもとの場所に帰れるらしく、ちょっとホッとした。(匠)


シレットにて

ダッカの夜。 2014年3月7日(金)

朝5時半、ホテルの従業員に「タクシー来たよ、タクシー来たよ、」と起こされて出発。シレット発8時半のバスに乗るために一時間の余裕を見て6時半に送迎を頼んだら更に一時間早く来てくれちゃいました。あっという間のシレット、インド国境付近の川のほとりで過ごした2日間でした、
バス停にずいぶん早く着いたので、ここで初めて地元の屋台で朝食を食べました。焼きたてのナンにダル(豆カレー)、サモサ、チャー。そうそう、こういうのが食べたかったのです!
シレットにて
バスに乗ること7時間、ダッカシティに戻ってきました。いつも送り迎えをしてもらっているのですが、今回は「トライしてみるから大丈夫。」と、初めて自分たちでCNG というタクシーに交渉してグルシャン地区まで無事に帰還しました。ワサマが出迎えてくれ、「夜友達が来たら一緒にコンサートに行こう。」とアメリカンクラブという会員制のクラブの野外チャリティーコンサートに連れて行ってもらいました。JBやPhishのコピーバンドとヒップホップの2人組のライブでした。会場ではビールが販売され、お酒の飲めない国での外国人の遊び空間を垣間見させてもらいます。会員制クラブなのですが、メンバーの紹介があればバングラデシュ人でも誰でも入れるので、みんなここでお酒が飲めるのを楽しみにしているような感じでした。
ダッカナイト
コンサート終了後、「クラブへ行こうよ!」と目をキラキラさせて誘われました。リキシャーで移動して入り口でIDと金属探知機を通り抜け、荷物チェックを受けたあとはガンガン音のするレーザービームが飛び交う空間へ。ここは登録制のクラブのようです。ここでもお酒が販売されていて、地元の若者がお酒とタバコと出会いを楽しんでいます。1/5くらいは外国人で、シーシャというアラブの水パイプがはやっていました。今夜はセクシーセレブリティとかなんとかいうイベントで、バングラデシュの女の子たちがみな露出度の高い服を着てピンヒールを履いてとてもおしゃれをしていました。昼間のサリーやサロワカミューズという全身布でまとわれているイスラム国の女性の感じとまったく違って、やっぱりこういう世界もあるんだな、とちょっとした親近感を覚えました。テレビやインターネットも普及している現代人ですから、この辺は万国共通なのかもしれません。むしろ、普段できないことをしている特別感みたいなものがあるみたいで、みんなとてもはしゃいでいました。朝の3時にはもう眠さも限界点を越え、とても今朝シレットにいたとは思えない一日、これがダッカナイトなのでしょうか。(よ)


船作り現場

シレット2日目。 2014年3月6日(木)

朝9時、ボートに乗って出発。周りには沢山の船(もちろん木造船)、みんな船の中に川底の砂を積んで、川岸まで運ぶ作業を繰り返している。バングラデシュは大地が平地なので、砂や砂利などを掘り出す場所がほとんど無く、川の水位が下がっているこの時期に砂を採取するということらしい。みんな船が沈むギリギリまで砂を積み川岸まで運ぶので、僕たちが乗るボートはすれ違う時に減速し、波を立てないようにする。岸に着いた船からは、そんなに積んだら持てないんじゃ・・・と思うくらい砂をバケツの様なものに入れて運ぶ。誰もが無駄の無い筋肉、とてもいい体をしている。
ティーガーデンへ「あそこに見えるのがインドのイミグレーションだよ。」と白い建物を指差してガイドさんが言う。そう、バングラデシュの一番端っこまで来てしまったという訳だ。その後、ここの一番の観光地でもあるティーガーデンへ向かう。確かに歩いて着いた先にお茶畑があった・・・以上。比べる訳ではないが、みんな静岡県のお茶畑見たらびっくりするだろうなぁと思ってしまった。船はテント宿近くまで戻り、これでツアー終了。
ちょっと休憩して、川の対岸に船を作っているっぽい景色が見えたので、ひとりで川を渡って調査に出かけた。そんなに広くない川幅を何往復も何往復もしている渡し船。誰もお金を払っていないので、流れに乗って無銭乗船。結局帰りに支払う事になるのだが、どうやら地元の人はお金を払わなくて良さそう。よそから来た人の料金は片道2タカ(約2円60銭)ほど。船作りの現場にたどり着くと、どうやら船を直している様子。直すといってもほとんどのパーツは新しく作り直されていているみたいだ。英語がわかる人が全くいなかったので質問のしようがなかったのがちょっと残念だった。それにしても手斧を正確に力強く使いこなす船大工さんの姿は、船作りのすべてが体の中に閉じ込められているというより、船作りの技術なのか魂なのか、なにか目に見えないモノが集まったら、人間みたいな形になっているような・・・。ひとりの人間というより時の流れの中で動いているモノ・・・ん?・・・それを人間っていうのか・・・。
現場
せっかく対岸に来たのだから少し歩き回ってみようと歩き始めると、なんとなく案内役の人が現れ、次はこっちへどうぞと行く先を決めてくれている。気がつくといつの間にか沢山の人たちに囲まれていた。珍しいお客さんなのは間違いない。家具を作っているところ、雑貨を売っているところ、みんなが集まる村の中心のような場所、そして学校。学校は授業中だったのだが、中に入れ中に入れと誘われたまま足を運ぶと、いつの間にか大勢の生徒たちの前に立たされていた。少し英語がわかる校長先生らしき方が、「日本からきた人」っぽく僕を紹介をしてくれたので、僕は「マイネームイズタクミ、アイケイムフロムジャパン、コンニチハ。」と挨拶。ちょうど英語の勉強をしているっぽかったので、良かったのかな。低学年と高学年の2クラスを案内してもらい、子供たちにしてみたらちょっとした非日常で楽しめたのではないかと思う。
その後、校長先生がお茶でも飲もうと、広場にあるお店でチャーを頂く事に。「ウィープアー、ユーリッチ」を何回か繰り返す校長先生。甘〜いチャーと甘ま〜いドーナッツのような物を出してくれた。砂糖のかたまりを揚げみたいな本当にとにかくこれ以上無いくらい甘いドーナッツのような物、食べるのに一苦労した。
対岸のむらお店から出ると今度は若い2人の男の子(20歳ぐらい)がこっちへ来いと誘うのでついていってみた。どうやらお家に招いてくれるみたい。よし子が対岸で待っているのでそんなに時間がないと伝えてはみたが、伝わったかどうか。途中ボロイという木の実を採って食べたりしながら船大工現場から歩いて20分くらいかかって彼らの住む家に着いた。家の中や、お風呂、洗濯のやり方などなどを案内し教えてくれた。家の作りは非常にシンプルで日本の建築様式と似ているところをいくつも見る事ができる。
午後、本当に何もやる事が無いので今度は僕が午前中に行った対岸の村によし子を案内した。さっきと同じお店でチャーを飲み、今度は例の甘いやつではなくサモサを頼んだ。田舎の田園風景の中をのんびり歩き、ダッカではあまり感じられないゆっくりと落ち着いた時間を過ごす事ができた。 (匠)


奥に見えるのはインド

シレット 2014年3月5日(水)

バングラデシュは日本と同じかそれ以上に携帯電話社会で、料金も安く誰もが常に携帯を携帯しています。日本からの携帯電話はロックがかかっていてプリペイド式にできないので、Wasamaが使っていない携帯を貸してくれ、SIMカードを購入しプリペイドで使えるようにしてくれました。
朝7時半、迎えの人が来てCNGというベビータクシー(バイクのタクシーみたいなもの)でバス停まで送ってくれました。「危ない危ないそんな運転じゃぶつかるよ〜、アーッ!」というのを30回くらい繰り返し、案の定乗車中に他の車にコツンとあたりました。運転手は文句を行ってすかさず出発。「今日のが一番スリルあったね。」と匠くん。
テント生活
Wasamaが手配してくれたバスはGREEN LINEという奇麗なバス会社の奇麗なバスでした。「これ日本よりシート広いんじゃない?」エアコンが効きすぎてふかふかシートが腰に会わず、いきなり匠くんがダウン気味。途中一度休憩をはさみ約6時間でシレットに到着しました。バス停にはホテルから迎えが来ていてそれに乗り込みます。あれよあれよという間に町をぐんぐん抜けていきます。「地球の歩き方」の情報外、ホテルやマーケットも通り抜け、いくつもの集落も通り抜け、約一時間くらいたったころにはのどかな田園風景になっていました。無言の運転手にホテルまで連れて行ってもらうとそこはどうみてもリゾートホテル。ゲートがあってホテルの下には川が流れています。川からボートでお茶畑見学というのがここの観光だそうで、1時間半で行って帰ってくるクルーズだそうです。他には?と聞くとカヤックがあるからカヤック遊びでもどう?といわれました。ボーイさんにリゾートホテル内を案内してもらい、高台から眺めるとすぐそこがインドのメガラヤ州だよ、と教えてくれました。「ここはシレットなのですよね?」「シレットの一番端っこです。」お店も何もありません。わたしたちの予約した部屋はホテルの中庭にあるテントです。テントはこのホテルの個室の半額ですが、ガイドブックにあるホテルの5倍から6倍くらいの金額で、案の定テントといってもベッドとドレッサーと電気があり、バングラデシュに来てこんなリゾート旅を味わうとはと面食らっています。匠くんは疲れちゃったみたいで遅い昼食を食べたらそのまま眠ってしまいました。(よ)

夜、起きてテントから出ると外はにぎやかなパーティーの後といった感じ。アメリカ、カリフォルニアから来たという学生たちと、ダッカ大学の学生、そしてそれぞれの先生たちがわいわいがやがや話をしている。聞いてみると地質学の研究をしている仲間だそうだ。明日早朝にダッカ、明後日にはアメリカに帰るという。女性たちはサリーを身にまとい写真を撮り合って楽しんでる様子。ひとりのバングラデシュ人は、「ドラえもんの国からやってきた人と会えて嬉しい、一緒に写真を撮って〜」と。日本のアニメは沢山入ってきているのだが、中でも今人気なのは「ドラえもん」っぽい、何となくだけど。
明日の予定は午前中ティーガーデン散策。午後はフリー、さてどんな日になるのだろうか。(匠)


公園で仲間と再会

ダッカ大学散策。 2014年3月4日(火)

今日はダッカ大学周辺にて、瀬戸内芸術祭のときの仲間たちに会おうとTIger Najirが呼びかけてくれました。早めに家を出て、CNGといわれる小型3輪自動車にて大学近辺まで移動します。こちらではすべて事前交渉で代金を決めて乗り込みます。ダッカを知っている人には分かるでしょうが、日本人には驚くべき道のアドベンチャー感覚。毎回スリル満点です。何度もぶつかりそうになり、クラクションを鳴らし続けて走ります。無事到着しても今度は道の横断にも気を抜けません。車とリキシャーとバイクが行き交う隙間を見つけて道を渡ります。うかうかしていられないのがダッカシティなんだと毎回実感します。
ダッカ大学周辺を散歩
大学近辺には大使館や高等裁判所などの政府機関があります。古いモスクが今もお祈りに使われていたり、イギリス領時代に建てられた歴史的建築物が今では大学の授業に使われていたりなど、建築物は見学対象ではなく今でも人々の生活の中で活用されています。Wasamaが昼食前に連れて行ってくれたのが独立戦争博物館(Liberation War Museum)。バングラデシュはかつて東パキスタンで、1971年にパキスタンから独立し、バングラデシュになりました。独立運動のときの様子や殺された人々の写真や衣類、使われた銃、最後の部屋にはガラスケースにたくさんの遺骨が一緒に納められていました。写真を見ると、女学生たちが銃を持って行進しているものもあり、戦争の生々しさを感じます。ジョージハリスンが呼びかけて1971年にNYで開催されたバングラデシュ救済コンサートのポスターが唯一気を緩められる展示でした。その後Wasama行きつけのケバブ屋さんにて昼食。こちらではご飯は大皿に山盛り一杯、ナンもすごく大きいものをひとり1枚以上、それにお肉やカレーといったおかずを注文し、追加でナンやチキンをオーダーします。何を食べてもわたしにはおいしく感じられ、地元の人と同じく手を使って食べています。
公園にて
3時に公園で待ち合わせということで、リキシャーに乗って向かいます。バングラデシュの国旗のTシャツにハチマキ、高松で会ったときと変わらないNajirが「バローボンドぅ!」と出迎えてくれました。「彼が兄だよ、彼は友達だよ、」と次々似合う人を紹介してくれます。ちょうど今アート祭が開催されているそうで、ほとんどのみんなはそっちに出展していて来られないんだ、週末に行こうよ、と誘ってくれました。それでもジャムダニ織りの2人やジュートバッグ制作のLipiやチャクマ織りの女性、リキシャーペインターが会いにきてくれました。Najirの友人通称Kabbo(詩人という意味だそう)が即興で詩を唄ってくれて楽しんでいると、「Japanese song please!」と断りにくい状況に。バングラデシュ人が珍しがってわらわらと寄ってくる中二人で1曲、一人一人で1曲づつを唄わざるを得ず、結局見学予定のミュージアムやカフェにも寄らずに時間が過ぎていきました。Najirがタクシーを止めて交渉し、それに乗って帰り、先に帰ったWasamaと合流、彼の友人たちとケバブ屋さんで夕食。人だかりを見るとみんなクリケットの試合を見ていました。盛り上がるはずです。試合はバングラデシュ対パキスタンでした。戦争ミュージアムを見てきたばかりなのでこの試合への熱意が伝わります。結果はおしいところでバングラデシュが負けてしまいました。明日はWasamaの手配してくれた観光先シレットを訪れます。(よ)


仲間と再会

船大工仲間と再会 2014年3月3日(月)

今日は、昨年の瀬戸内国際芸術祭でバングラデシュの船「ノウカ」を作っていた船大工に会いにダッカから少し郊外へ。日本に来ていたのはボジョンとハリムの2人。大きな道から脇に入り集落のつきあたりにある川沿いの作業場に着いた。車から降りると早速船大工2人がニコニコしながらこちらへやってくる。「久しぶり〜っ」と再会を喜ぶ。他にも作業をしている人たちが全部で10人以上いる。彼から今、2ヶ月後にルクセンブルグで行われるエキシビションに向けてバングラデシュの船の模型を沢山作っている最中。 とても忙しい時期で、みんなで手分けして作業を行っているとの事。作業メンバーの紹介してもらうと、その中にはボジョンのお父さん、兄弟、伯父さんなど家族みんながチームになって行っている様子。 ワサマの話では、ボジョンのお父さんと最初に会ったのがきっかけで現在のプロジェクトがスタートしたという。
模型制作の様子今回作っていたのは実物ではなかったが、作り方は小さくなっただけで、焼き曲げや木のジョイント方法などはほぼ同じで、かなり手の込んだ模型である。ワサマたちのチームは、100種類以上のモデルがあったと言われているバングラデシュの木造船のうち80種類はデザインを把握していて、どのようなものか分っているという。そのうち今回は40種類の模型を作ってルクセンブルグのエキシビションで紹介するのだという。今できている分を見せてもらったが、ほとんどできている模型が30点弱。後2ヶ月で本番と考えると最後の追い込みの本当に忙しい時期なのが分る。
今日は日本では「ひなまつり」というお祭りなんだよと、よし子がボジョンとハリムに日本から買っていった「ひなあられ」をプレゼントした。
リバークルーズ
作業場から船に乗ってリバークルーズを楽しんだ。プープーカーカーピーピーのダッカの音から少し離れて静かな時間。川沿いの景色すべてが日常の生活なのだが、僕にとってはイベントのように感じられた。川の両岸を繋ぐ渡し船、小舟を使って遊んでいると思われる子供たち、移動手段に使っている大人たち、沢山の船が一つの景色に溶け込んでいる。船の漕ぎ手達は僕が見る限り完璧なJストローク(カヌーの漕ぎ方の一つ)で漕いでいる。同じ川を行き交う船は、ちょっと傾いたら沈没するんじゃないかと思われるほどギリギリまで砂を運んでいる。重量オーバーとか定員オーバーとかはこの国には存在しないのだろう。(匠)


グルシャン2マーケットにて

旅の予定 2014年3月2日(日)

ここでワサマについて少し紹介をしよう。先に話したように昨年行われた瀬戸内国際芸術祭で知り合った僕たち。ワサマは芸術祭の中で、バングラデシュの船についてのプレゼンテーション、そして製作を行っていた。彼はバングラディシュの木造船の文化を保存、後世に伝えるという役目を持っていて現在は、木造船でバングラディシュの川を旅するツアー会社「Contic」を経営している。そのツアー会社「Contic」も含まれる船を使った大きなプロジェクトが「Friendship」だ。「Friendship」は船で首都ダッカと地方をを行き来して医療、教育、食料支援など、その他ありとあらゆる人道的支援を行っている組織である。そのディレクターを務めるのがワサマのお母さんであるRunaさん。そして「Contic」「Friendship」他、それらで使う船を管理しているのがお父さんYvesさんが経営する「taratari shipyard」である。と、今はワサマとご両親の3人に役が割り当てられている感じだが、すべて船で繋がっている大きな一つの組織といった捉え方・・・でいいと思う。
2日、今日はワサマのオフィスにて旅の計画を立てることに。ワサマの家はダッカ市内のグルシャン1という地域にあり、オフィスはグルシャン2という地域、車で約30分ほどの距離だ。ワサマが電話をすると多分会社の運転手さんであろう方が迎えにきてくれた。空港に迎えにきてくれた人も会社で雇っている運転手だった模様。「Friendship」と「Contic」が入っているオフィスビルにつくと、お母さんをはじめ、そこで働くいろいろな方々に僕たちを紹介してくれた。瀬戸内国際芸術祭の後、バングラデシュに帰ったワサマがみんなに対して報告会を行っているので、「ああ、あのエキシビションの人ね。」と、少し話が早かったようだ。
僕たちに旅のプランを提案してくれたワサマ、驚いた事に僕たちが帰る日まで1日刻みで予定を組んでくれようとしている。最初は、「いいよそんなに構ってくれなくても・・・適当に行ってみるから。」なんて思っていたが、話をしていくうちに「これ、どこも自分たちだけじゃ絶対行かない場所だね・・・」と僕たち2人。結果、「流れに任せてみよう」ということに。旅のプランの中には、「Friendship」の活動現場や、造船の様子、芸術祭で会ったバングラデシュ人に会いにいったりなどなど、僕たちだけじゃ入っていけない世界があり、早速ワクワクしてきた。
交通手段のチケットの事もあり、詳しい日程はまた後ほどだが、だいたいの予定を決める事ができた。
グルシャン2マーケットにて
その後、グルシャン地域をワサマ案内のもと歩いてまわった。世界中の国全てに行った事は無いけれど世界中で一番エキサイティングであろうダッカの交通だ。0.1秒も気が抜けない。ここグルシャン地域は、ダッカ市内でも外国色が強く、あわせて地元色も強いので、地球をミキサーにかけたような地域だ。
夜はワサマの家族と一緒に食事をすることに。ご両親の家はワサマの家から歩いて10分ほど、一般家庭とは呼べない広い家でご両親とワサマの弟、そしてお手伝いさんが2人いる。お母さんは先に書いたように「Friendship」を引っ張っていっているくらいなので、かなり「できる人」だ。会っただけで”この人何か違うな”と思う何て言うんだろ・・・「オーラ」が漂っている人だ。お父さん(正確にはお義父さん)はフランス人。とても優しそうで穏やか、そして貫禄がある、そんなお父さん。そして弟さんとワサマ、僕たちと計6人で、ワサマが日本に来たときの事や、まだ2日しか経験していないダッカの話、他、国際色溢れるいろいろな話で盛り上がった。
今は一緒に住んでいないもうひとりの弟はルクセンブルグで勉強中。世界を股にかけている家族、といっても過言ではない勢いのあるファミリーだ。まだ2日目だが、いろいろお世話になり早速感謝している。ドンノバッ!(ありがとう!)(匠)


ベンガル料理レストラン

ダッカに到着。 2014年3月1日(土)

空港に着いたのは2時頃。空港から外に出ると『TAKUMI YOSHUKO』とプリントされた紙を広げている方が立っていた。映像では見た事があったけれど、そうやって迎えにきてくれるのは初めてだったのでなんだかVIP待遇を感じた。この迎えにきてくれた方は初めてあったのだけれど、迎えを頼んでくれたのは、これから向かう先にいるWasama Doja(ワサマ)だ。ワサマは昨年行われた瀬戸内芸術祭の会期中に友達になったバングラディシュ人であり、今回の旅はまず彼を訪ねるところからはじまる事となる。
空港からワサマの家までなんとはからめ号と同じハイエースで約30分ほど。途中、目に飛び込んでくる光景は・・・なんと言えばいいのだろう、言葉が見つからない・・・ダッカ。「これがダッカです」と町が僕たちに話しかけているような感じがした。走っている電車の屋根の上には子供たち。立ちながら大手を広げニコニコしながら気持ち良さそうに風を受けている。リキシャと呼ばれる日本の人力車の自転車版が車と車の間をギリギリすり抜けていく。0.3秒に1度は響き渡る車のクラクション。道路に信号はほとんど無く、みんな何か大きな一つの心の決まり事があってそれだけを守ってうまくいっているような交通状況だ。
片言の英語で運転手さんが少しだけ建物などを案内してくれながら、しばらくするとどうやらワサマの家に着いたみたいだ。メインの道路から2、3本道を入ったところにある建物、入り口は鉄格子で警備員らしき人がいるけど、一応いる、そんな感じ。備え付けのエレベーターで3階に向かおうとすると扉が閉まる前にワサマが目の前にある階段を駆け下りてきた。「お〜、やっと会えた〜」とエレベーターの中で3人抱き合った。ワサマが何者でどのような仕事をしているのかなどは、後ほどゆっくりと話す事としよう。
その後、部屋に行き、ワサマといろいろ話をして、一緒に近所を散歩し、バングラデシュ対アフガニスタンのクリケットの大事な試合をテレビで見たりした。夜、出発直前に買い物を頼んできたミキ子さんが近くに住んでいる事が分かり、落ち合って4人で一緒に食事。ワサマお勧めのベンガル料理レストラン。今まで食べた事があるカレーの中でもしかしたら一番美味しいのではないかという思うほど、本当に美味しいカレーだった。
話の中で僕たちが行こうと思っている場所の事を聞いたり、ワサマも僕たちの旅のプランを提案してくれたりと、明日旅の予定を立てることにした。
さて、この先どうなるのか想像がつかないけれど、非常にワクワクしている自分がいる事は確かだ。ちょっとした時差も影響あるのか、飛行機で寝たり寝なかったりも影響し、夜は用意してくれたベッドの上でVIP待遇を感じながら倒れるように眠った。(匠)

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