物資、物資2011年3月31日 (木)
ものの行方

現地で必要なもの、それはたくさんあります。あるところにはたくさん届いていて、配布しきれず山積みに、なんて話もききます。実際にそういうところもあります。人手が無くて配布しきれない、どこに何が必要かを把握しきれない、という実情もあります。本当に、今ほしくて待っている人、今手に入れたいのに手に入れられない人がいる中、善意や思いやりで送られたものたちが冷たい場所で置き去りにされていることをどうやって解決していったらいいでしょう。そういう実情を踏まえて、わたしたちは責任を持って実際に必要な人に手渡しできる以外の物資は募らないことにしました。なぜなら、ものを通してみな心をいただいているからです。「ありがとう、ありがとう、すみません、すみません。」直接お渡ししたときには本当に大事そうに両手で抱えて、受け取ってくれます。大きなダンボール箱の状態で置かれたものから探すのとは違う、ものを通して伝わる思いがそこには存在しています。ものがあふれているといわれていた現代、使い捨てや買い替えなどで物の価値がどんどん下がっていました。あふれる物資からたくさん渡すことよりも、大切に使えるものをひとつづつ揃えていけるよう、こころのこもった物資を届けたいと思います。これ以上ごみを増やさないために。少ないものでも賢く使えば暮らせます。すでに過去の話となりつつあるわたしたちの福島での山のテント生活では、不便さよりも知恵を使う楽しさの方が大きかったです。
今日は母の住んでいた東京の家の引越しでした。ほとんど全ての家電製品は次の家に揃っているため、今まで使っていたものたちは不用品となります。とってもいいタイミング!これから家電が必要になる人たちがいます。個人的には電気なし生活のススメ的なこともしたいのですが、山林ではなく、町の生活の復興支援ですから、電気が通ったら役に立ちそうなものたちです。必要なものは与えられる、お掃除の本にそう書いてあったのを思い出しました。 (よ)

新宿駅にて2011年3月30日 (水)
イメージの奇跡。

横浜にて再度石巻に行く準備を進めています。しばし関東にいたのでこちらの生活を報告します。まず、関東地方では計画停電ということばを毎日聞きます。足りない電力をまかなうためにグループ分けした地域ごとに3時間くらい停電させるということなのですが、テレビ、ラジオの報道を見ると、「電気が無くて困っている。」「計画停電の影響で困っている。」とのことばが多いように感じます。医療機関などは命の問題に関わるでしょうからもちろんですが、こういうときのためのバッテリーを使っているところもあり、なんとかしているようです。実際の計画停電下におかれている人の声はというと「たった2,3時間の停電くらいで申し訳ない。原発付近で暮らしていた人、いまだライフラインの復旧も無い中で暮らす人、その人達のためにできることが数時間電力使えない程度なんて…。」話を聞いた人全員、計画停電への不満により原発を再開させたいという人はいませんでした。なぜ、メディアと実情がこんなにも異なっているのでしょうか。わたしは、被曝するくらいなら電気使えなくてもいいと思っています。電力を生み出すのは原発以外にもたくさん選択肢がありますから、日本が先頭きって原発をやめる方向へ世界をひっぱっていく必要性を訴えます。一刻でもはやく、原発を止めなければ。
東京に滋賀県から友人が来ていたので、わずかな時間でしたが新宿に会いに行きました。関西での状況を聞きながら、お互いにできることをしようといって別れました。駅に向かう途中になにやら聞き捨てならない発言を耳にしました。「俺はもういくら放射能浴びたっていいんだよ〜コノヤロ〜」追いかけて行くと、聞き覚えのある声と後ろ姿が…。「カドマン!!」こういう偶然は神様の計らいとしか思えません。同じ日に同じ新宿の同じビルから同じ時間に出てきたこの感じ、何日か前にも経験したような・・・・・。カドマンはゴーストタウンのようになっている東京をなんとかしようとがんばっている様子でした。
友人、知人、カレンダーで繋がっている人たちから力をいただいています。メールをいただくたびに涙が出ます。その思いと共にわたしたちもがんばります。人の力は核分裂をうわまわるエネルギーを発揮し、限界がない!そう信じています。奇跡を起こすのは、人のエネルギー、never give upです。 (よ)

日の丸2011年3月29日 (火)
安心か、安心じゃないかは・・・・

僕達のはからめランド、海沿いではないので津波の被害はまのがれた。さらに、テント生活なのでテントは崩れることなく、外に組み上げていた薪が崩れてしまったり、テント内のストーブのまわりにあったレンガが崩れたくらい。地震での被害は、ほとんど無いのである。そう、もし原発がそこに無ければ僕達は、思い切って自分達の生活をしながら思いきった復興支援をしているだろう。福島県にはからめランドを決めた時、水の豊富さ、自然の豊かさを味方につけた感じがして、「地震とかの災害で避難することになったら福島へおいでよ。絶対何とかなるから。」と街に住む仲間によく言っていたのを思い出す。今となっては笑い話だ。
「風評被害」という言葉がよく聞こえてくる。僕が思う人間っていうやつは、1人1人の違う価値を持った人間が、1人1人違った行動をとるものであると思う。これは安全だと思うけれど、これは安全ではないという価値の基準は人それぞれ違って当たり前であるということだ。ちゃんと自分と相談して行動をとるのであれば、それは風評に惑わされているのではなく、自分の知恵と知識を元に自分の意識で動いているということになる。
連日テレビでオウム(鳥のオウムね。)みたいに繰り返し繰り返し「安全」、「大丈夫」って言っているけれど、みんな、そうじゃない意見もちゃんと聞いているのだろうか?もしどこかの2人がケンカをしていたら、1人の意見だけじゃなくてまず2人の意見を聞くところが、仲直り、解決への第1歩であると僕は思っている。その第1歩を踏み出すために、まず2人の意見を聞くところからスタート。
1人の意見は、テレビ(いろんな番組があるのにどのチャンネルひねってもみんな同じ事を言っているからみんな一緒)などのメディアでもう充分聞いていると思う。ので、ここではもう1人の人達(っていう日本語はおかしいけれど)をちょこっと紹介しておこうと思う。下に貼るリンクは2つ、1つは動画、1つは文章。もちろん、既存のメディアに対する反対意見があるように、これらに対する反対意見も沢山ある。という訳で下の2つ、すでに見たことがある方もいると思うけれど、暇なときに覗いてみて頂きたい。
みんなが最後の最後に唯一信じきれるのは、テレビでもラジオでもインターネットでも宗教でも信頼できる人の意見でもなく、自分自身でしかないことを伝えて筆を置くことにする、じゃなくてセーブしてアップすることとする・・・か。  (匠)


関連サイト: 田中優-東北関東大震災-原発について(動画) ・ 平井憲夫-原発がどんなものか知ってほしい(文章)

都内誰かの選挙活動、春が来ている2011年3月28日 (月)
4月1日、三軒茶屋のカフェOhanaにて

まず、はからめの活動資金としてカンパをしてくださった方々どうもありがとう!ただいま、僕たちはからめは一時横浜に戻ってきている。都内を走る車は選挙で忙しいみたい。数日間をこちらで過ごし4月5日に再び石巻へと向かう予定だ。その間に、充電(身体のね)や事務作業以外に首都圏で出来ることを考えてみた。
横浜にはテレビがあるのでニュースなど震災関連の番組をつい見てしまうのだが、1時間ほど見ていると「違う、これを見続けたら感覚がおかしくなる」といった恐怖感に襲われる。テレビで言える事、テレビに映せることの少なさは皆さんも知っていることと思う。テレビを批判するわけではないがテレビの見過ぎには注意しよう。
そこでテレビではなく、実際に現地で体験した僕たちの声で、現地の状況、活動報告などをみんなと共有できる時間と場所を作らせて頂いた。4月1日金曜日、場所はいつもお世話になっている三軒茶屋のカフェOhana。時間は19:30〜、1オーダー制+カンパ金を募らせて頂こうと思っている。いま、自分に出来ることは何なのかと考え続けている人、仕事など日々の業務に追われ、どうしようもなくやりきれない気持ちでいる人、現地の状況を知りたい人、暇な人、ぜひぜひ4月1日、三軒茶屋に足を運んでほしい。嘘じゃないよ。  (匠)


関連サイト: Ohana

海沿いは壊滅2011年3月25日 (金)
今、何が必要?

地震、津波で家族を失い、家も失って、仕事も失い、先が全く見えないまま避難所で生活している方が沢山いる。 そして、それが、いつまで続くのかわからないという気持ちの中での毎日の生活、溜まるストレス。 今、被害地では何を求めているか? ・・・・・・トイレ、お風呂、ガソリンなどの燃料など大きなところではみんなの声と言える答えなのかもしれないが、毎日被災された方々と一緒に話していると、「人それぞれ違う」のだということが良くわかる、当たり前だ。被災された方々の声を聞きたい方、現在の状況を少しでも知りたい方、 ぜひ現場で動いている人の声を探して、それに耳を傾けてほしい。下に一緒に現地、現場で現状と向き合って活動をしている方々のWebサイトへのリンクを張らせていただくのでぜひ、今を見ていただきたい。 (匠)


関連サイト: 続・雨ニモマケズ風ニモマケズ ・ 四万十塾 ・ ヒューマンシールド神戸 ・ わっか

湊小での炊き出し2011年3月24日 (木)
湊小学校4日目。

地震発生14日目。なんだかあっという間に日が過ぎて行き、福島のはからめランドを出てからまもなく2週間になります。いまだに時間の感覚がよくわからず、現実なんだけれど現実じゃないような、へんな状態が続いています。今日も湊小学校に炊き出しに行きました。この小学校がある湊地区あたりは壊滅的なダメージを受け、体育館もかなり悲惨な状態でした。ここで炊き出しをしたときには形容する言葉もありませんでしたが、この泥だらけの体育館がきれいになって、みんなにあたたかいご飯と必要な物資を提供でき、ステージでは音楽の演奏などがあったりしたらいいな、とイメージしていました。
炊き出し4日目、今朝は掃除からはじめました。水をまいて泥を洗い流し、キッチンレイアウトも変えてみました。2000食のご飯を自衛隊の方々に炊いてもらい、わたしたちはミネストローネスープとほうれん草シーチキン和え、果物をサーブしました。明日からの炊き出しは自衛隊がまかなってくれるということになり、今日はその引き継ぎのような感じでした。
東京から物資を運んでいるチームに、「箱のまま置いていくのではなく、開けてきれいに並べて、手渡しできるといいと思うんだけど。」と伝えると、午後には少しずつですが箱から出されてきれいに種類別に並べていました。キッチンを手伝ってくれた女性に話しかけると、職業はシンガーだそうで、明日ここの体育館で歌ってくれるとのこと。私たちは一旦関東に戻ろうと思っていますが、イメージしていたことが現実になりそうな気配です。  (よ)

炊き出し2011年3月23日 (水)
湊小学校3日目。

地震発生13日目。日々何をするか、毎日この場所がよくなっていくように作業を考えます。水の手配は毎日自衛隊の給水車に来てもらえるようにガッテンが話をつけてくれました。予想しないことも起こりますが、そこは現場に強い人たちと一緒にいるのでこころ強いです。2000食を作る作業を5人からはじめ、東京から牧師さんチーム3名が加わって8人になり、 避難所のお母さんたちにも手伝ってもらって、ちょこっとづつですがコミュニティもできてきました。食事を作るということを通して、人と人とのコミュニケーションがはじまり、石巻という街にご縁ができた気がします。(よ)

湊小学校2011年3月22日 (火)
湊小学校2日目。

地震発生12日目。今日も避難所となっている湊小学校にて炊き出しをしました。避難所で生活をしている方は約650名、近隣で生活を送っている方約1900名、およそ2500名以上の方々が毎日満足に食事の配給を受けられません。そんな中での昨日の炊き出しはとても喜んでいただけました。
「明日もいただけるんですか?」との声に、2000食の食材をみんなでなんとか調達します。毎日がぶっつけ本番、足りない分は自衛隊の保管している物資をわけていただいて、今日は元気うどんを作りました。「温かいものを食べられるなんて、涙が出そう。」と言っているのを聞いたときにはわたしの方も涙が出そうでした。日々、人とのふれあいの中で生きるということを思い出させていただいています。明日もみんなの力を合わせて身も心もあたたまる食事を作ろうと思います。 (よ)

湊小学校で炊き出し2011年3月21日 (月)
春分の日、元気鍋。

昼と夜が同じ長さになる春分です。
地震発生11日目。今日は約700名が避難所生活をおくっている湊小学校に炊き出しに行きました。昨日泥だらけの体育館の掃除をしてなんとか人が出入りできるような段階まで片づけがすすみました。そして今日の午前中にはじめてお湯をわかしました。この小学校ではこれがはじめての温かいものだったそうで、お湯を求める人がとぎれることはありませんでした。それから徳島と富山から運んでもらった大鍋で、信州から来たワカを隊長に元気鍋と名づけた温かいすいとん汁を作りました。体育館に集まった救援物資を、衣類、アメニティ、寝具などに分別してきれいに並べました。みなさんとっても喜んでくれて、ほしいものを探していました。ひとりひとりの方とお話すると、その人が今何を必要としているのかが切実にわかります。女性用の生理用品や下着、靴下などが不足していました。水が出ないためお風呂にも入れませんから、せめてからだを拭いて下着をとりかえることができるといいな、と思います。わたしも現地入りしてからはお風呂に入っていませんから、からだを拭いて下着をとりかえることでしのいでいます。自分たちの食事も1度はご飯を炊きましたが、早朝出発で夕方まで現地で動いているため、わたしたちもカップラーメンやお菓子などの食生活になってきました。夕方帰ってきてお菓子や菓子パンをつまみ、ミーティングに参加して夜となる、そんな生活が続いています。体調管理も難しい、そんな環境ですが、今は気が張っているため元気です。今日は札幌から石巻が故郷の友人ヒロアキが来ました。日々いろいろな人がやってきています。 (よ)

石巻の町2011年3月20日 (日)
満月、薪ストーブ設置。

地震発生10日目。わたしたちは四万十塾とーるくん、徳島のツヨシくんと出発し、途中で釧路ガイドステーションわっかのガッテン&リョウタくんと合流しました。湊地区を調査し、それから牡鹿半島の月浦、萩浜地区を調査しました。津波で家は倒壊、電信柱も折れ、車や船がありえないところに乗りあがっていました。道も分断され、車の入っていけないところも多く、歩いて避難所となっているであろう小学校や中学校をたずねました。自衛隊が入っていて、物資は行き渡っているようですが、避難所として認識されていないところもまだたくさんあり、情報も物資も届いていないであろう孤立集落を探しました。地震発生から10日目を迎えた今でも現地の状況は悲惨です。今日も行方不明の方がご遺体で発見されました。
みんなの拠点、煙突設置被災者の食事は支給されたカップラーメンやパン、おにぎりなどで、他トイレットペーパーやおむつ、着替え、下着、マスク、毛布などの物資を配りました。炊き出しができる準備をして周りましたが、50名以下の小規模の避難所で何よりも喜ばれたものはやはり薪ストーブでした。男性陣は薪をつくり、女性陣はキッチン周りでストーブ設置場所を片付け、みんなで団結してその場にある材料で薪ストーブを設置することができました。みんなとても喜んでくれて、設置と同時に拍手が起こり、お湯をわかして支援物資のカップラーメンをつくってくれるというお接待までいただいて、なんだかわたしたちの方が元気をいただいきました。いい気分で渡波地区から集会所に戻る途中、冠水していて車が通れず、わたしたちが水没する危険が出てきてとても怖い思いをしました。満月の今日は大潮、地震で土地が沈んだようで、潮が満ちてくるとともに道が通れなくなっていたのです。なんとか通り抜けられる道を探し、ようやく集会所にたどり着いたときにはしばらく動揺してしまいましたが、次から次へとやってくる支援物資の積み下ろしや新しいボランティアの方たちと話しているうちにあっという間に日付が変わっていました。みんなが無事でよかったです。 (よ)

no image2011年3月18〜19日
新潟〜鶴岡〜石巻

地震発生8日目。物資を調達して東北へ向かうため、横浜から関越道に乗って新潟を目指しました。関東では燃料もお米も手に入りませんでしたので、新潟まで行けば物資の調達ができそうなこと、原発を避けて日本海側から東北入りする方が安全かもと話しあい、今の燃料でぎりぎり行けそうなところを計算しました。お互いの家族ともに救援への送り出しをしてくれ、これでわたしたちの準備も整いました。福島県南相馬市から山形県米沢市に非難していたカップルが今新潟市体育館で避難所生活をおくっているときき、彼らに会ってから現地入りすることに決め、今夜は関越道のパーキングで仮眠することにしました。 
今日は春の彼岸の入りです。 彼岸とは煩悩を脱した悟りの境地のこと。西方に沈む太陽を礼拝し、遥かかなたの極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりといわれています。お彼岸とは春と秋に行われる彼岸会のことをいいます。彼岸会とはお寺で行われる先祖の霊を供養する仏教行事のことです。ご先祖さまが帰ってくるというので、わたしも祖母と叔母のお墓参りをする予定でしたが、今年は心でお参りすることにしました。(よ)
地震発生9日目。 高速のパーキングで目覚め、米沢であったまゆみちゃん、輝一くんに会うために新潟市体育館を目指します。数日ぶりに会うふたりはとても元気そうでした。こちらの避難所はとても恵まれていると言っていました。毛布は全員に支給、食事も3食、携帯充電、インターネットの使用、子供たちのための読み聞かせやピアノのコンサート、温泉への送迎などもしてくれるそうです。2人はこのあと名古屋の方へ行こうかと検討していました。また会おうね、と言ってわたしたちはそのまま元気村事務所のある山形県鶴岡市を目指すことにしました。
昨年鶴岡の川を案内してくれたスターンこと草島進一氏の選挙事務所に寄らせていただきました。スターン氏はすでに石巻で救援活動をしていて、奥さんの裕子さんが対応してくれました。ここでお米などの物資を積み込み、鶴岡警察署に緊急災害救援車両の届出を申請して、購入できる食材を買いこんで出発しました。たくみくんが「燃料が手に入らないんだったら、薪ストーブを持っていこう!」と、ホームセンターを探しまわって手に入れられるだけの薪ストーブ、煙突などのセットを購入しました。車の中満載で仙台を通り抜け石巻までたどりつきました。仙台市内はまだやっていないお店もありましたが、電気もついていて人も歩き回っていました。通り抜けた松島、そして石巻は夜でよく見えないとはいえ、すごい惨状でした。石巻では専修大学付近の南境生活センターに集合。日本財団のクロサワさん、鶴岡から草島進一さん、信州からヒューマンシールド吉村誠司さん、高知から四万十塾とーるくん、釧路からガイドステーションわっかのガッテンとリョウタくん、徳島からツヨシくん、各地からたくさんのボランティアが20名以上集まり、明日のためのチーム会議が行われました。 (よ)

no image2011年3月16〜17日
学ぶこと

地震発生6日目。群馬でも燃料は手に入りませんでした。これからの動きのため、一度お互いの親に会いに埼玉を経由して横浜まで戻ることにしました。
地震発生7日目。東京も、通常通りではないにしろみな仕事をはじめ、交通機関や店舗なども停電の影響は受けつつも再開していました。人々も不安はかかえていますが普段の生活を保っています。被災地から来たわたしたちにとってははじめこの温度差にとまどい、食料があるのに買い占めていることへのなんともいえない感情をいだきましたが、みな心をいため、それぞれが被災しているのだと思うと、誰も責められません。みな何かをしたくても何をしていいのかわからずにいるのです。各地の友人に食料、燃料事情をきき、次に動ける体制を整える準備を練ります。
テレビで福島第一原発3号機へのヘリからの放水を見ました。水をためるにはヘリから100回は放水しなければならないとの計算の中、ヘリの下に鉛の板を敷いて防護服を着て放射能を計測しながら4回の放水で限界。少ない可能性に命をかけて作業にあたる人たちやその家族のことを思うと言葉がでません。埼玉、横浜ではみな停電にそなえ、節電しています。この震災から学ぶことはとても大きいです。これまでの生き方とは違う、今の人類に必要な生き方を示唆しているような、そんな気がします。生きている人は生きることを真剣にするようになるしかありません。今や世界中で、原子力のありかたを考えることになっているでしょうし、エネルギー、環境、人間性の本質を本気で考えることになったと思います。日本という国がやるべきこと、その国にいる人がやるべきことはとても重要です。これからの未来への鍵となる、そんな気がしています。
明日再び被災地へ行くため、しばらくの間のカレンダー&手帳の発送業務が遅れます。3月11日前にお返事した方へは明日横浜から発送します。それ以降の方、折を見てご連絡させていただきますのでしばらくお待たせすることをお許しください。また、明日の発送取り扱いでも、現在の流通からすると到着までにお時間がかかりますことをご了承ください。
現地の状況を見て、被災地から安全な場所に、人々を受け入れる場所をつくっていくこともしていきたいと思っています。 (よ)

no image2011年3月15日 (水)
できること

地震発生5日目。燃料は手に入りにくく、閉まっているスタンドに「軽油はありますか?」と尋ね、「2000円分だったらいいですよ。」と、約15リッターづつをちょびちょび入れながら群馬県までやってきました。ラジオで米沢市が被災者の受け入れをはじめ、被曝チェックもしているとの情報を聞き、昨日のカップルにメールをしました。2人はすでに米沢市に受け入れてもらったそうで安心しました。徳島から救援物資を運んでいた四万十塾時代のたくみくんの兄弟子ツヨシさんと連絡を取り合い、群馬で落ち合いました。近くに住むバズ(四万十塾時代の仲間)にも連絡し、4人で話します。ツヨシさんは昨夜山形県鶴岡まで物資を運び、このあと徳島に戻るとのこと。それぞれに自分ができること、やるべきことをやっていこうと話しました。アロマセラピストのバズは、これからは心のケアが必要になるね、と言っていました。 (よ)

土砂崩れ2011年3月14日 (火)
人のつながり

地震発生4日目。電波が届くところに行くと携帯電話へのメールが受信されます。ほとんどが家族、友人たちからの安否の確認メールです。中にはカレンダーや手帳の注文メールもあったのですが、非常事態ですのでしばし待っていただいています。街まで行けば燃料と情報が手に入るかも、と昨夜は米沢まで車を走らせ、上杉神社の駐車場で仮眠しました。雪深い山を越え、寒さに身も心も凍えそうでした。朝、隣を見ると福島ナンバーの車が停まっていました。もしや、と思って声をかけると、やはり逃げてきたそうで、たくみくんが「あたたかいコーヒーを入れるから一緒にどうですか?」というと、今にも泣き出しそうな勢いで話を聞かせてくれました。「どこに行ったらいいかわからなくて、あわてていたので装備も万全でないし、これからどうしたらいいのか。」2人は若いカップルで、原発から25kmのところに住んでいて、半径20kmの住民に避難勧告が出る前に自主的に逃れてきたとのこと。「政府は10kmの人へ非難っていっていたけど、怖くて逃げてきた。そしたら今になって半径20kmっていってる。でも25kmに住んでいるわたしたちだって安全なわけがない。友人からメールで、避難所でふとんを盗まれたって。もうどうしたらいいのか。2人でいても不安だし、悪い方へばかり考えてしまって。」動揺したり、取り乱したりするのは当然です。今まで経験したことのない恐怖、なれない車中泊、燃料は手に入らず、食事はシリアル、あたたかいものもとれません。同じ思いをしている人たちがたくさんいるはずです。「玄米ご飯とお味噌汁の朝食を食べて、神社に参拝にでも行こうよ。」と、固まっていた体を動かし、コンビニで新聞を購入し、しばし4人で時間を過ごしました。「関東にしばらくいられるところがあるから一緒にどう?」と誘いましたが、「日本海の方まで出てから関西に逃れるか、もう一泊ここにいるか…。」と決めかねている様子でしたので、連絡先を交換し、いつでも助け合おうといって別れました。個人で逃れてきた人たちは今不安な気持ちをかかえたまま誰にも吐露できずに苦しんでいます。何もできなくても、声をかけてお互いの状況を伝え合うだけでもずいぶん心が軽くなります。こんな状況だからこそ、人のつながりのありがたさを実感しています。わたしたちもメールで安否を気遣ってくれるみんなに励まされています。 (よ)

ばったり!2011年3月13日 (月)
放射能

地震発生3日目。水を調達し、北へと向います。ラジオで福島第一原発からの放射能もれのニュースをききました。半径3kmから10km、いまや20kmまでの距離の住民の避難勧告が出されました。放射能は目に見えず、すぐに体で感じられるものでもなく、風に乗って100km以上の距離まで届くものです。この恐怖はすべてを破壊してしまうほどの威力を持ちます。わたしたちの精神、人間関係、前向きな考えまでも。2人でこれから向かう先を話し合います。放射能による影響で、わたしたちの意見も食い違い、これからどこへ進むべきか、何をすべきか、被曝するんじゃないか、と次々に問題が生じてきました。 (よ)

目の前に生きるか死ぬかで泣きながら困っている人たちがいる。福島第一原発を避け宮城県に向かっていた。するとありえない事が起こった。2人でラジオの声に耳を傾けながら車を走らせていると、左側の合流車線からなんと同じカヌーを積んだハイエースが現れ、真横に並んだ。四万十塾のとーるさんだ。「うわぁ〜なんだこれぇ〜」。とーるさんも北へ向かっていると昨日連絡を受けていたのだが、今日は特に連絡を取りあっていなかった。どこかの町でバッタリ会うレベルを超えている。車を停め、笑いなのか何なのか分からない変な数分を過ごし、少ない情報を共有した後、合流場所を決め別れた。その後、車を北へ走らせていると、福島第一原発が爆発し漏れ出した放射能が100km以上北にある女川原発で観測されたとの事。涙を飲むとはこういう事か、とーるさんと合流する予定だった場所へは向かわない事を決め、西へハンドルを切った。 (匠)

原発爆発地から約40kmのところで給水作業をしていたわたしたちの恐怖は言葉にできません。被曝しているんじゃないか、風向きによって違うからわからない、いろいろな考えが浮かんでは打ち消していきます。放射能を自分たちで測るすべもありません。はからめランドにも帰れず、必要なものも取りにいけません。救済支援をするつもりで動いているわたしたち自身も家を失った被災者だということに気づきました。北へ向かおうとする匠くんと相談して、1日待って対策を練りなおすことを決めました。気休めかもしれませんが、わたしがとった対策は、お風呂に入る、食事で防御する、むやみに動き回らない、といったことでした。以前、原爆で被災した人の記事を読んで、玄米とお味噌を食べて被曝から逃れたということを思い出し、玄米と梅干、ワカメを入れたお味噌汁を作り、それから温泉を探しました。災害時ですからどこの温泉もやっていません。疲れ果て、道に迷ってつきあたった旅館にだめもとで聞いてみると、「昨日まで電気が止まっていたから何もできていない状態のお風呂で掃除もしていないけれどそれでもよければ、」と入れてくれました。「すいぶんたくさんの人を入れたから、綺麗じゃないけれど、源泉だから。」とおかみさん。災害でお風呂にも入れませんでしたから、とてもありがたかったです。南相馬市から非難してきた男性もお風呂に入りに来ていて、家は流されてなくなってしまったそうですが明るく元気にふるまっていました。
それから車の燃料のことを考え、あまり遠くまで行かずに動けるところで待機しようということにしました。 (よ)

地震の後の吹雪、海岸沿い2011年3月11〜12日
震災

福島で震災にあいました。これまでに経験したことのない大きな揺れ、たくみくんの足の下で地面に亀裂が入り、ただ事ではないことを感じました。わたしたちは山のはからめランドから車で30分のところにある塙町の郵便局に来ていたのですが、揺れがおさまるとともにはからめランドに戻りました。テントでの生活でしたので、壊れたものはなく、お鍋やストーブの耐火レンガが崩れたほか、外に積み上げてきた薪が崩れたくらいでひとまず落ち着き、それから災害用ラジオで情報を聞きました。津波、断水、停電、大災害です。大きな余震が続き、怖くて眠れぬ夜を過ごしました。
地震発生2日目。ラジオでは海の近くには近づかないようにとのことでしたが、海の近くで非難している人たちの状況が心配で持っているタンクとペットボトルを車に積んで水を汲みに行きました。近くの水汲み場から湧いているはずの水が出ていません。どこか水の汲めるところ、と探して飲料水を確保し、太平洋側の勿来、小名浜方面に向かいました。山越えしてすれ違う車は荷物を積んで逃げてきた様子、みんな命がけです。小名浜に着くとガソリンスタンド渋滞がすさまじく、道路には亀裂が入り、段差ができて危険な状態。橋も今は通れますが、今後どうなることか。町は断水状態で、いくつか出ている水場にはタンクを持った人が長蛇の列をつくっていました。開いているスーパーやコンビニのほとんどは商品が売りきれ、食料を求める人たちの困惑した様子がみてとれます。近くの小学校を訪れましたが、まだ避難所として機能している状態ではなく、校庭に車を停めて車の中でじっとしている人たちの姿がありました。行ける所まで海側へと向かいました。言葉を失う驚くべき惨状でした。津波で流された車がはがれたアスファルトの上に乗り、家や店舗は跡形も無く瓦礫の山、途方にくれる状態で、人気はほとんどありませんでした。瓦礫の中で何かを探している人に声をかけ、避難所を聞きました。高台にある小名浜高校に避難しているとのこと、地図をたよりに探しました。
校庭には沢山の車が停まっていました。ポリバケツにプールの水を汲み、「これは飲料水ではありません」という張り紙をしている人に声をかけ、責任者がいるか、事務所はあるかと尋ねます。事務室に行くと男性が1人いました。聞けば水は出ない状態で困っているそうで、炊き出しの場所をきき、そこに水を運びました。炊き出しといっても、鍋や火種があるわけでなく、会議室で女性の先生方5名がおにぎりをにぎっていました。電気がきていたので炊飯器でお米を炊いていたのですが、水が切れてお米も炊けずに困っている状態でした。すぐにお米を炊き、みんなでおにぎりを作ります。お米は30キロの米袋が1つのみ、あるのは塩だけ。片手のひらにおさまるくらいの小さな塩おにぎりを350個つくりました。残っているお米は明日の朝にとっておくとのこと、まもなく日も暮れる頃となり、みんなおなかをすかせています。体育館には約400人の人がいますが、まだ人は増え続け、水も食料も届かずに困っています。家が残る人たちが食料をかき集めてつないでいる状態。毛布は20枚しかないそうです。すべての水を容器にわけいれ、次に何ができるのかを考え小名浜高校をあとにしました。タンクの水は空っぽ、このあたりではガソリンも水も手に入らないので車を走らせ物資の手に入るところを探し求めました。自分たちの土地に戻るか迷いましたが、このまま進むことに決め、家にはしばらく帰らない覚悟を決めました。 (よ)

旧銀河のほとり、新銀河のほとり2011年3月5〜6日
銀河の引越し、啓蟄

5日の朝5時46分、魚座の新月です。魚座は神秘性や寛容さを司る星座です。今日は先日食事に行った「銀河のほとり」という自然食レストランの引越しの手伝いに行きました。わたしたちの仕事は本棚の移動と整理で、本をまとめて、運んで、分類別に陳列して、という作業でした。ときおり雪がちらついて寒い日ではありましたが、たくさんの方々がお手伝いにやってきました。おいしい食事と銀河のかけらをいただいて、今日中に横浜にたどりつくようにと出発しました。横浜に着くと、仙台からの客人アヤさんが滞在していて、おいしいお酒をいただきました。
6日、 虫も目覚める頃といわれる啓蟄です。先日までの寒さもやわらぎ、虫が目覚めるような陽気となりました。今日は私の実家の引越しです。引越しとなると不用品がたくさん出ます。その中からほしいものをいただいて、昨日今日でわたしたちの荷物が増えました。(よ)

ワイン、新月へ向けて2011年3月3日
ひなまつり

3月3日は「雛祭り」です。「桃の節句」「上巳の節句」ともいいます。平安時代に、貴族が自分の災厄を代わりに引き受けさせた人形を流す「流し雛」が発展して「雛祭り」となりました。この邪気を祓う行事は、桃太郎が鬼退治をする民話のもとになったといわれています。
わたしの実家では、お雛様を旧暦の節句にあわせて飾ります。 地域によっては旧暦でひなまつりをするところもあるでしょうね。
はからめランドの今朝のテント室温はー4℃。お天気は晴天で、かなり風が強く寒い日となりました。今日はワインとチーズでひなまつりを楽しみました。  (よ)

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